イタリア式愛の囁き

興味を覚えない方はいらっしゃらないはず。イタリアと言えばアモーレ、アモーレ、アモーレ、と思っている方は少なくないのだから。確かに愛の言葉の種類はニッポンのそれに比べたらはるかに多く変化に飛んでいる。そしてイタリアとニッポンの大きな差は、その言葉を恋人同士で使うだけでなく家族間、友達間、しいてはペットにまで使うということだろう。惜しみなく愛情表現をし、口に出して声に出してナンボ、相手を気分よく酔わせてナンボ、更に自分にも酔ってしまえ、といったところか。勿論いつも言うことだがイタリア人全員がそうなのかといったらわたくしが知る由もない。が、イタリア人彼氏がいる友達やわたくしの二人のシェア・メイト(イタリア人、ブラジル人女性)から聞くだけでもそれはそれは見事にそうであるし、イタリア人男性の友人たちがわたくしの目の前で彼女からの電話に出るとき、バールやパブにやってくるカップルを見るとき・・・つまりわたくしはイタリア人に囲まれてイタリアにいるのだからいとも簡単に調査検証ができるってもんである。

例えば恋人を何と呼ぶか。ニッポンだったら名前で呼ぶ、これが一般的だろう。イタリア人から言わせれば何と素っ気無い、である。イタリアで一番多いのは「アモーレ(愛)」「アモーレ・ミオ(私の愛する人)」。わたくしのルームメイトのイタリア人女性ロセッラも彼氏から電話がかかってくる度に「アモーレ〜」と応える。しかしこの言葉は恋人同士だけで使うものではない。例えばわたくしが大学前のバール・フランコへ行くとする。オーナーであるフランコさんはわたくしの家の家賃主でもありわたくしをよく知っているし可愛がってくれるので「アモーレ〜、今日はどう?元気?最近店に寄ってくれなかったじゃないか」と普通に言われる。ちなみにフランコさんは64歳であるが、店にやってくるこれまた60才前後の幼馴染らしいオバサンたちにも「チャオ、アモーレ〜」と呼びかけている。更にマンマが息子や娘を「アモーレ」と呼ぶこともあるし、友達間でも頻繁に使われる。何とペットの小犬をそう呼ぶときもある。

そして次に多いのが「テゾーロ(宝物)」。しかしこれも「アモーレ」同様、家族間でも使うし、それこそ母親が子供を呼ぶのにも頻繁に使われる。(その場合の使うタイミングとしては子供をなだめたり、優しく説き伏せるとき等が多い。)しかしニッポンで恋人に一度でも「わたしの宝物よ」等と言われたことがあるひとがいたらお目にかかりたい。「愛する人」とか「宝物」等というセリフは現実を通りこえて文学か舞台の世界である。

忘れてはならないのが「プリンチペッサ(お姫様)」。その昔アカデミー賞を受賞したイタリア映画「ライフ・イズ・ビューティフル」の1シーンを覚えていらっしゃるだろうか。ロベルト・ベリーニ扮する父親とともにナチスに捕らえられた息子が放送室のマイクから「ボンジョルノ〜、プリンチペッサー!(おはよう、お姫様!)」と母親を呼ぶシーンである。彼は父親がそう呼ぶのを聞いて育った為、その台詞を普通に覚えてしまったのである。実際家族がまだ小さい娘をそう呼ぶことは往々にしてある。例えばクリスマス、プレゼントでもらった洋服を皆の前で着て見せれば「おお、プリンチペッサ!何て可愛らしい!」と家族から親戚からそう絶賛される。
ニッポンなら「とてもよく似合ってるね」という文法的に非常にすっきりした何の飾りもないただの説明文で終わるだろう。ちなみに小さい女の子に対して「プリンチペッサ」と呼ぶのと同様に男の子に対して使われるのは「カンピオーネ(チャンピオン)」。例えば親が子供のサッカーの試合を見に行くと「カンピオーネ!!!」と大声で叫ぶ。試合後子供が家に帰ってくれば家族から親戚から「お帰り、カンピオーネ!」である。持ち上げて、持ち上げて、持ち上げる。というより信じ込んでいるのだろう。自分の息子はチャンピオンなのだと。ニッポンなら有り得ない。「お前はよく頑張った。でもあの最後の5分、あれはオフサイドだったよ」とか冷静な第三者としての意見を言われてしまうのがオチである。イタリア人にとって大切な人は常にトップ・オブ・ザ・ワールドなのだろう。全ての人の身近にプリンチペッサがいて、カンピオーネがいて、テゾーロがいて、アモーレがいる。

プリンチペッサといえば昔ペルージャに来たばかりの頃、ナポリ人の44歳ガブリエレとローマ人の20歳エミリアーノとルームシェアしていたが、ガブリエレもまたわたくしのことを普通に「おはよう、プリンチペッサ」とか「学校行くのかい、プリンチペッサ」等と呼んでいた。ここまでくると風情も何もあったものではない。ただの馴れ合いというかどうでもいい挨拶の一貫である。

変わり種としては「ズッケリーノ(お砂糖ちゃん)」。ズッケロはイタリア語で「砂糖」の意味、ズッケリーノと語尾変化すると「小さい」というニュアンスが加わる。想像して頂きたい。お砂糖ちゃん、である。更に「トポリーノ(ネズミちゃん)」というのもある。「チッチャ(お肉ちゃん)」というのもあった。ニッポンでこんな風に呼ばれたら半殺しだろうが、恋人が太っているからというのでは決してなく、これもただの愛称で親しみがこめられているのだ。そう言えば「ビリッキーノ(いたずらっ子)」というのもある。


さて、これらの愛称はやはりただの愛称であり、彼らの発する愛のセリフのスタート地点である。ここでわたくしが今までに聞いたことのある名セリフを一挙公開しよう。

「僕は失明した。君というまばゆいくらいの美を見たときから僕はもう他のものを見ることができなくなってしまったんだ」
「カフェ・ラッテに砂糖入れないの?そうか君は砂糖なしでも十分にドルチェ(甘い)からだね。」
「今日は星が出てないね。きっと君が輝きすぎてるからだね。」
「君に1秒でも会えないと息が出来なくなって僕は死んでしまうんだ。」
「どんな美しい花束も君の前では枯れるだけさ。」
「ジェラシーを感じるよ、その君のセーターに。君にそんなに近づいて」
「君はどうしてそんなに美しく生まれてきたの?他の女の子は可哀相だね、どうしたって君には勝てないんだから」
「君に触れる空気や太陽の光にも嫉妬する」
・・・・

オペラの世界と現実の差が全くない。こういうことを目の前で言われたのでは返答に困るし、ニッポンジンだったら絶対「照れ笑い」して終わりである。心の底から冗談の一貫かと思う。
そもそも「セイ・ミオ・ズッケリーノ・ピュ・ドルチェ・デル・モンド!(世界で一番甘い僕のお砂糖ちゃん)」等というセリフが存在することが驚きである。言われてみれば「世界で一番」という付属語はよく耳にする。ニッポンで「世界で一番美しい」と恋人や旦那さんに言われたことがある人はなかなかいないのではないか。少なくともわたくしはない。まあ世界どころか、ニッポンに絞っても、神奈川県、いや横浜市青葉区3丁目だけに絞っても「一番美しい」とはどうも言えたものではないので仕方が無い。という思考回路がニッポンジン的で甘さに欠けるのだ、とイタリア人の友人たちは口を揃えて言う。

イタリアでは挨拶の言葉にも「美」をあらわす言葉が付く。例えば「チャオ、ベッラ」。これはもう日本語には訳せない。チャオはつまり英語の「ハイ!」、ベッラは日本語で言うと「美しい」という意味。英語なら「ハイ、ビューティフル!」(とは誰も言わないと思うが)となる。が日本語訳で「こんにちは、美しい人」というのではあまりに文学的過ぎるし、誇張されすぎだ。男性は女友達に会った時普通に「チャオ、ベッラ!」と挨拶として言うし、この友達が男性なら「チャオ、ベッロ!」と語形変化する。つまりもうこれは親しい間柄で使う挨拶の一部なのだ。イタリアに来たばかりのころ、電話でもこの「チャオ、ベッラ!」と言うのを聞いて「顔も見えてないのに美しい人、なんてやりすぎだ。」と笑っていたが、そういう文化、会話のテンションがイタリアには存在するのである。

言わずもがな、ニッポンには「男児たるもの寡黙に生きろ」という文化があるし、宗教的にも「我慢・堪忍」、つまり内に秘めることが美徳とされてきた。「男のくせにお喋り」とはよく言われることだ。(そんなこと言ったらイタリア人はどうなるのか)そういう文化に慣れているニッポンジンのわたくしとしては、やはりこういうイタリア式愛の台詞や彼らのテンションというのは胡散臭く感じてしまうときがある。がしかし、イタリア人の言うように「思ってるだけじゃ分からない。言って伝えて分からせて初めて意味があるんだ」というのもなるほど、肯ける。そもそもニッポンでブームの冬ソナ現象、一番心を奪われている団塊は40代から50代の主婦層と聞くが、彼女たちの恋愛や結婚生活に一滴でもイタリア風調味料が加わっていれば、つまり旦那様から恋人から毎日「アモーレ、今日のご飯もういらない。君を見てるだけでお腹が一杯なんだ」等と言われていれば、今ごろ冬ソナに夢を重ねることもなかったのかもしれない。