もらいタバコ率ナンバー1のイタリア

barmariko2005-01-02


パブやバールで働く時、教養のないイタリア人客に度々驚かされる。非常に多いのが値段交渉。例えば「ねえ、今2ユーロしか持ってないんだけど、4ユーロの生ビールミディアムが飲みたいんだ。2ユーロまけてくれる?」頭大丈夫か、そんなこと出来る訳ないだろう、と思いつつもここは 我慢。ここはイタリア。「無理。私そんな権限ないから。せめて2.5ユーロの生ビール スモールにすれば?0.5ユーロくらいならまけてくれるかも、とりあえずオーナーに直接聞いてみて。」

それで引き下がる客はまだいいが、中には「まけてくれよ〜、俺いつもここ来てんだよ〜お得意さんなんだよ〜」と駄々を こねだし最後には「ポルカ・プッターナ!」(あまりにお品が悪くて日本語訳致しかねます)と毒舌をはくことも。一体どういう頭の構造なのか。

そして「わたし何にも飲みたくな〜い」。これも凄い。例えば夜中の2時。とあるイタリア人グループ、男女7人。飲み物をオーダーするのはたった2人であとの5人はひたすらお喋りに没頭。ここはお喋り喫茶か、何にも飲まないなら出てけー!というのが普通、というのはニッポンのご事情。その度にわたくしはしつこくオーナーにも、「ねえ、7人がテーブル2つも使っててさ、頼んだのがコカ・コーラとアマーロ一杯だけよ、有り得ないって。どうする?」愚痴るのだが、オーナーもイタリア人、「そりゃそうなんだけどね。まあ夜も更けてくるとね、仕方ないかなあ。」

そしてもらいタバコ。注文をとりにいくと客にいきなりこう聞かれることがある。「チャオ!ねえタバコ持ってる?」「持ってない」「じゃあ誰かからもらってきてよ、タバコ1本。その間に注文考えておくからさ」何故私が、日本で一応大学も出て社会人として働いて普通に常識も身につけた私が、お前らのためのタバコを他のお客さんに聞いて回らねばならないのだ。意味が分からない。

しかしこれは何も店内だけではなく、道端で大学で至るところで見る風景である。知らない人にタバコをねだる。イタリアでは当たり前に成り立っている。嫌な顔もせず普通にタバコをあげるイタリア人。自分が持っていなければ友達に聞いてあげたりもする。そもそもイタリアは乞食が生きていける国である。弱いものを救うのは我々の義務、とイタリア人は言う。カトリック精神だ、と言う。

しかし私は見た。ローマに1ヶ月半程いたとき、ティブルティーナ駅で毎日毎日エスカレーターの下に立っていたある乞食。「子どもが3人。お腹を空かせています」という札を首に下げて何人もの人が彼にお金をあげていた。しかし彼は夕方5時になると、ぱっと札をはずしスタスタと帰っていくのである。顔つきも違う、背筋も伸びていた。まるで5時に仕事を終える公務員である。彼のお金に対する下心や生活に対する甘えが垣間見えた気がして非常に興醒めだった。何がカトリックだ。

もらいタバコはイタリアを象徴する一つの局面である。イギリス人の友達もフランス人の友達も、同じラテン民族としてしばしばイタリア人と似ていると言われるスペイン人も、そしてブラジル人やメキシコ人も、とにかくわたくしが知っている限りのイタリア人以外の友人知人は皆口を揃えて批判する、イタリア人的「もらいタバコ」。良く言えば、困ってる人にはそれが知らない人であっても親切なのがイタリア人というところか。

確かにバスの中で老人に席を譲る、重い荷物を運んであげる、等の行為は明らかに日本よりイタリアのほうが多い。例えば駅で重いスーツケースを運んでいたとしても、日本人は知らん顔だったりする。英語で道を聞かれたら、照れ笑いをしながら逃げるのが日本人、英語が喋れなくてもジェスチャーで頑張って道を教えてあげるのがイタリア人、とはよく言われること。ではもらいタバコは・・・いや、そもそもタバコが無くて困っている人、というイタリア人の前提自体がおかしい。そんなの困ったうちに入らないではないか、ないなら買え、買わないなら吸うな、というのが普通だろう。どうもこういうイタリア人の詭弁はいつまでたっても受け入れられない。