トーマスの誕生日

先日、ドイツ人の親友トーマスが50歳の誕生日を盛大にやるとのことで私も招待されたのだが、いやいや・・・そのランチパーティの素晴らしさといったら。


彼はIT関連を専門とするコラムニストであり、ドイツ語、イタリア語、英語の三か国語で記事を書く傍ら、ソムリエの資格も持つ天は二分も三分も与えてしまったのか、と思わずにはいられない人なのである。

そして何よりも日本酒を愛し日本の文化を愛するあまり、日本語の勉強を始め今年の冬は日本へ短期留学までしてしまったという、50歳とは思えないエネルギーの持ち主、私がイタリアへきて最も尊敬する友達だ。

イタリア人のおかしな価値観の中で不安になったり自分の判断に自信がなくなる時は、まず間違いなくトーマスに相談する。的確なアドバイスをくれるから。


さてそのトーマス、友人知人を40人招きパーティはペルージャの近郊の街アッシジリストランテで披かれた。

トスカーナともラツィオとも違う緑豊かな表情を見せるウンブリアののんびりした田舎道を車で20分、その眺めの素晴らしいこと。そしてポツンと現れたのは、限りなく広がる山と丘に囲まれた一軒家のアンティークなリストランテ。人生30年、私の歴史において堂々1位を飾るリストランテである、ここは。


幸い近日の悪天候をかき消すようなさんさんと太陽のふりそそぐ5月の陽気だったこともあり、私たちは食事中にも関わらず次々にワイングラスをとって庭へ出、ウンブリアののどかな景色をつまみに至高のひとときを過ごした。
「皆さん、中へ戻ってきてくださいよー。バースデーケーキに蝋燭ともしますよー。外がいいのは分かりますけどね・・・」

店の支配人がそう声をかけるまで、私たちは庭で大騒ぎしていたのだった。


ふと見渡すとトーマスのその友人層の厚さ多様さに驚く。というのは、弁護士もいれば動物のお医者さん、歯医者さん、飲み屋のオーナー、飲み屋のスタッフ(私か?)、大学の教授、飲み屋のカウンターで知り合った無職の男もいるという、日本ではあまり考えられないごった煮状態なのだ。私はこのごった煮状態が居心地よくて大好きである。

彼はドイツ人だが、特にイタリアでは社会的地位、年齢を気にせず人間関係を育むところがあると思う。その点日本は少々窮屈である。
部活で、バイト先で、職場で、年が1歳でも違えば敬語を使っていた経験が私にもある。


イタリア語にも普通語と敬語があり、英語でYOUにあたるのがイタリア語ではTUとLEI。前者は普通語、後者のLEIは敬語である。
1年以上前私がペルージャのバールやパブで働き始めたとき、オーナーに敬語で話し掛けたとたん「マリコ、TU(普通語)を使って話してくれよ。LEIじゃさ、僕らとんでもない年寄りみたいじゃないか」と言われ、友達言葉を指定された。


ちなみに敬語のLEIを使わなければいけない状況が往々にして生じるのが嫁姑間である。
日本もイタリアも同じ。嫁姑の関係がぎこちなければ、姑が「TUで話してくれていいわよ」と言ってくれるまで、嫁はLEIを使って話さねばならない。


話を戻そう。トーマスはソムリエであることもあり無類の酒好きで、仕事の無い日は夜な夜な行き付けのパブを徘徊する。
1軒はペルージャの超中心にある「シャム・ロック」というアイリッシュパブ。もう1軒が私の働く「ダウンタウン」である。

実は誕生日パーティーの前日、トーマスは仕事でドイツから帰国したばかりにも関わらずその足で夜中の1時にシャンパンのボトルを片手にダウンタウンへやってきた。勿論自分のお祝いの乾杯をする為である。


例えば日本で、自分の誕生日を(それも50歳の誕生日を)こんな形でアピールする人を私は見たことがない。むしろ我らが日本に根づくのは大の大人が恥ずかしい、というどこか冷めた感情だろう。
「だってね、全てに感謝してるんだよ。50歳を本当に幸せに迎えられたから。それに単純にさ、楽しくっていいじゃないか。こういうの。景色もきれい、ワインはうまい、ご飯はおいしい、友達がたくさん。」


そして朝3時、トーマスは帰っていった。「数時間後には起きて先にリストランテ行かないと。いろいろパーティの準備があるから。」と言って。有り得ない体力である。

勿論。ということは。私とダウンタウンのオーナーのステファノは翌日(いや数時間後)のパーティを心配しながら、渋ってなかなか帰りたがらないお客さんを睨みながら、結局朝の5時まで働き、僅かな睡眠で昼の12時半にはアッシジリストランテにはいたのである。


ところで日本では誕生日のお祝いの時、友達や家族がお金を出し合って当人には払わせないのが普通だ。イタリアは180度逆である。誕生日を向かえる本人が全額出すという風習があるのだ。トーマスがいくら払ったのか正確には分からないが、なかなかいいお値段だったはずである。


最後に。トーマスがやっぱりドイツ人だったのは、私たちに送られてきたパーティーの招待状にこう書いてあったことだ。
「お願いだから絶対プレゼントは持ってこないで」


ご丁寧に携帯メールにも同じメッセージが送られてきた。プレゼントを持ってきたら帰ってもらう、と物凄い徹底ぶりだった。


トーマスにとって皆に祝ってもらうことが大事なのではない。
かといって幸せを皆に分けてあげるという偽善でもない。
50歳の誕生日に彼が親友と過ごすこと、彼が幸せを満喫することが何より大事なのである。
受け身のパーティではなく200%発信的自発的なパーティ。イタリア人にはなくてドイツ人にあるもの、とこちらではよく言われる「自立した精神」がちらちら見えた。


「50歳のこのよき日にちょっと参加してくれよ。忘れられない日にしたいからさ」そんなノリだったはずである。
それはあたかも映画監督が役者を揃えて1シーンを撮りきった感だった。
これを粋と言わずして何と言う。