イタリア流にお菓子を包むと・・・

barmariko2006-02-01


その手さばきには脱帽である。美しいじゃないか。やるじゃないか。全く計算されていないのにもかかわらず、何故か完成された素朴さが生まれる瞬間。イタリアのパスティッチェリア(お菓子屋さん)でドルチェを買うたびに関心してしまう。

今日はペルージャ一の店と評判の「SANDORI(サンドリ)」へ行ってみた。ここのドルチェは美味しいだけではなく本当に芸術的で、何と言うかイタリアらしくない。イタリアのドルチェは、やぱりフランス菓子と比べると「素朴」「田舎風」といった形容詞が付くことが多い。時に甘すぎて、時に大味すぎて・・・といいつつも「ティラミス」や「パンナコッタ」シチリアの「カンノーリ」といったニッポンジンを虜にする名作をしっかり残すのだから、あなどれない。そんな中で、ここSANDORIのドルチェは、味も見た目も非常に繊細で、ペルージャのような田舎街ではダントツに光っている。ちなみに店内に一歩入ると、高い天井や壁に残されたフレスコ画、落とされた照明、アンティークなレジや陳列棚など、地元イタリアジンも絶賛の雰囲気である。(ちなみにここ、実はカフェも非常に旨い)


話を戻そう。ニッポンのケーキ屋では、店員さんが紙の箱にケーキを入れてくれる。もちろんその箱には持ち手と蓋が付いているから、安定性もある。折りたたみ式の紙ケース。サイズも色々揃って、今やニッポンの”しごく当たり前”なものの一つである。この当たり前なものが、イタリアにはなかなか無いのだ。

ではどうやって彼らはドルチェを包むのか。まず厚紙製の長方形トレーに、ドルチェを一つずつ載せていく。そしてここで取り出すのが、幅3センチくらいの紙短冊である。これがスーパー重要な働きをするのだ。この短冊が、即席の蓋になるのである。トレーに載ったドルチェの上で半円を描くように、短冊で橋を渡すだけ(もちろんドルチェに付かないように)。両端はトレーに直接ホチキスでパチンパチンと留める。そして包装紙を取り出し、あとは普通にトレーごと包んでしまうのである。短冊が天井の役割を果たしているから、包装紙がドルチェに付くことはない。何も考えずに包むだけで、上部はまるで聖堂のクーポラ(天井)部分のように丸く円を描くのだ。

ていうかニッポン的常識で考えると、ケーキを箱なしで直に包むって、どういうことよ?となるではないか。蓋もなけりゃ外枠もない。それをあの紙短冊1本で解決してしまうなんて。初めてみたときはそりゃぁ驚いたもんである。写真ではその後光すら見える紙短冊をとってしまったので、ちょっと分かりにくいのが残念だ。

ところでニッポンジンは包装紙で包むときも、最後の「留め」にペタペタとセロハンテープを使う。イタリアでは見たことがない。そもそもセロハンテープのある家ってそうそうないんじゃないか?滅多に使うものではないのだ。彼らが「留め」に登場させるのは、専らホチキスなのである。

お菓子屋さんやバールでドルチェをテイクアウトするときも同じ。上の要領で包んだら、包装紙の端っこはくしゅくしゅっと丸めて中に折り込むか、ホチキスでパチンパチンと留めてお終いである。超、適当なのに、何故か格好良くまとまるのが不思議である。

この離れ業を、バールで働く普通のバリスタがチャッチャッと手際よくやってしまうのには、本当に目を見張るものがある。昔バール・フランコで働いていたときもそうだった。バリスタのジュセッペも、店主フランコさんも、客とお喋りしながら手だけはこの紙の芸術を組み立ててゆくのだ。わたくしが何度チャレンジしても、彼らのようにはならない。不自然なぶきっちょな包み方になってしまうのだ。折り紙で鶴は折れても、この計算されないイタリア式包装は、わたくしには難しすぎる。

そういえば昔、何かの本で読んだことがある。ミラノスカラ座で舞台美術を学んでいるニッポンジンが、面白いことを言っていた。「何十メートルもある巨大な舞台画を描くためには、普通何メートルもあるコンパスや定規を使って緻密に下書きをするものなのに、やつらイタリアジンは直接描きだすんだ。コンパスもなしに、直感で”この辺かな?”って感じで。よく見るとはみ出てたり曲がってたりするんだけど、舞台で使ってみると本当に素晴らしい、何と言うか舞台映えする芸術作品に仕上がっているんだよ。うらやましい限りだよ。僕には絶対まねできないことなんだ」納得、である。