パニーノ大作戦(後半)

※前編・中編・やや後編もお読みくださいませ。(これだけだと意味不明です)

至って順調な滑り出しだった。タバコ屋のシモーネがまず嬉しそうに顔を出し、ランチ用にパニーノを注文した。「フリッタータ(卵焼き)の具は何だ?おお、ズッキーニか!じゃあそれに生ハムを1枚挟んでくれ。こうすると旨いんだよ」さらにシモーネのところで働いているオジサン、アレッサンドロがやってきて「いろいろあって楽しいなぁ。じゃあ僕にはこれ、生ハムとストラッキーノ(クリームチーズ)」

続いてシモーネの店でアルバイトをしている大学生の女の子たちがやってくる。「マリコ!何なの?何が起こったの?ティラミスもあるの?ねえ、私たちの分とっておいて!今から学校の授業だから!」「はいはい、大丈夫、ちゃんととっておくから。」「これ、1皿いくらにするの?」「2ユーロ(約260円)だけど・・・1.5ユーロでいいよ」約束通り彼女たちはやってきて、1人はハンバーガーとティラミス、もう1人はなんとあの日伊合作の「モルタデッラ入り卵サンド」とマチェドニア・フルーツを平らげた。

ところでわたくしが作ったパニーノは全品1.5ユーロ(約260円)である。同じ材料を使っても、バール・アルベルトから約20m上ったところにある「エミリアーノのパニーノ屋」という専門店へ行くと2.5ユーロになる。さらにこのガリバルディ通りの入り口脇にできた、新しいパニーノ屋、ここはハンバーガーがなんと4ユーロ(約530円)であるから、わたくしの手作りパニーノ&ハンバーガーがいかに安いか、一目瞭然である。東洋人を舐めるなよ、安くて美味しくて、新鮮なパニーノをここバール・アルベルトから発信してやる。

バール・アルベルトの片隅でゲームに熱中する駄目男くんたちも、次々とパニーノを買い求める。今まではゲームを中断したまま、食べ物を調達しに外出しなければならなかったのが、今では全部店内で事足りるわけだから当然の成り行きである。

さらにわたくしのニッポンジンのお友達が何人かやってきた。「これこれ!絶対これ、食べてみて!卵サンドにモルタデッラが入ってるんだよ、超お勧め!」と無理やり日伊合作を売りつけてみる。(ご協力頂いた方、その節は本当に有難うございました)そうして夕方17時、食前酒タイムがやってくる。実はこの食前酒タイムにこそ、この手作りパニーノたちは大活躍なのである。

例えばツナペーストのパニーノを小さくカットして爪楊枝をさし、カウンターに並べる。即席の食前酒用つまみの出来上がりだ。売れ残りパニーノの活用法である。さらに見栄えよくするために、事前に買っておいた1キロの徳用オリーブの実も並べる。(こういうものは安くてよいのだ。緑や黒のオリーブがあるだけで、色も映えるし、この店にはつまみがあるんだな感を演出する)

そこへ登場した店主アルベルト。「!?」目をむく。というよりも、昨日あれだけ予告したはずなのに、すっかり手作りパニーノの存在をお忘れになっていたようである。「ワオ、すごいな。これ全部用意したの?なんてブラバーなんだ!」「言ったでしょ、5倍のパニーノを持ってくるって。これでも6割は売り切れちゃったから、午前中はもっとたくさんあったんだよ」「こっちに売れ残っているのは・・・ピセッリ(問屋)に発注してるやつか。1個も売れてないじゃないか!」「確かにピセッリのパニーノは全く売れなかったけど(当然だ)、ピセッリの菓子パンは売れたよ。多分相乗効果だよ。ショーケースにモノが詰まってるから、いつもと同じものなのに美味しそうに見えるの。」「だけど・・・こりゃやばいな。問屋のパニーノが全然売れてない。」「発注やめればいいじゃないの。ピセッリに発注してるパニーノなんて毎日最大5個でしょ?一体いくら売り上げあるわけ?悪いけど同じ値段で、無難に美味しい手作りパニーノができるんだよ、絶対こっちのほうがいいに決まってるよ」

マリコ・・・そう簡単なことじゃないんだよ。10年以上も古い付き合いのある問屋だからな。親父の代から続いているんだ。発注をやめるのはちょっと難しいんだ」「売れもしないのに義理で発注を続けるわけ?そんなニッポンジン的なことは意味ないよ。じゃあさ、こうすれば?さすがにコルネットとかボンボローネとかの菓子パン類はわたし作れないからさ、そっちだけ発注するの。で、パニーノやサンドイッチ類は全部手作りに切り替える。どう?」「いや・・・発注の数を減らすのも難しいんだ」って既に減らしに減らしまくって、今の品薄状態なんじゃないか!
その歯切れの悪い答えに、イライラしながらもわたくしは午後18時、アルベルトと店番を交代し、家路につく。荷物をおいてすぐに、翌日のパニーノ材料の買出しへと出かける。デザート類は一度に2,3日分作ったのでまだ余っているし、ツナペーストもたくさんある。買い足すのは、やけに売れ行きのよかったフリッタータ(卵焼き)入りのパニーノを作るための、卵と・・・あとはチーズと生ハム、買出しリストを書いてゆく。パンだけは焼きたてが一番だから、毎朝作る直前に買いにいくことにしよう。ハンバーガー用のハンバーグは、週1回大量に作って冷凍しておけばいい。頭の中でスケジュールが動き出す。

さて翌日も滞りなく手作りパニーノ大作戦は続き、初日よりも多く、約7割〜8割は売り切れた。タバコ屋のシモーネなど、わざわざ1日2回も3回も買いに来て、毎日毎日新作パニーノでランチを済ませる。タバコ屋の客にもアナウンスしてくれているし、本当にいい奴である。そして、当たり前のことであるが、相変わらずピセッリ発注分のパニーニはきれいに売れ残る。3日目の夜、わたくしが店番をアルベルトにバトンタッチしようとしていると、突然アルベルトはこう切り出した。「明日からはもう作らないでくれる?」「・・・なんで。」「ピセッリのパニーニがこんなに売れ残っちゃまずいんだ」「だから!発注やめればいいじゃないの」「それは前にも言ったけど無理なんだ。古い関係があるから・・・マリコの企画は本当にナイスなんだけど、肝心の本来のパニーノが売れ残るようじゃ本末転倒なんだ」

世の中には、イタリーには、こんな理論が存在するのか。本末転倒はあんたのほうでしょうが。売れないものは排除しなさいよ。目の前に売れるものがあるんだから。わたくしは正直パニックになった。それでも頑張って数字の説明をしてみた。「これまで3日間の材料費がこれ。人件費がこれ。売上げがこれ。ねえ、どう考えても、ピセッリのパニーノ5個分の売上げより断然いいんだよ。しかも客の満足度からしたら、比較できないくらいだよ?」「でもこれまではピセッリ発注分は大体はけてたから。」「5個発注して5個全部はけたことなんかないじゃん!わたしが1個、アルベルトが1個食べてるんだよ?あんたのマンマがやってきてさらに1個家に持って帰っちゃうこともあるんだよ?」

わたくしは粘って抵抗し、ついにアルベルトはこう言った。「わかった。じゃあピセッリの発注をやめるように努力するから、発注をやめたら再開しよう、マリコパニーノ。いや企画自体は本当にナイスなんだ。」あんたの脳みそだけが問題なのよー。発注をやめるように努力するって、その努力を忘れちゃうのがあんたじゃないのー。

よし、忘れないように毎日わたくしが思い出させてあげる。まるで借金取立てのように。「ねえ、発注やめた?」「まだなんだ。もうちょっと」そうして1週間が過ぎた。いつものように不味いパニーノが届き、干からびたトマトと生ハムと色の変わったレタスに、不快感を覚えながら。

「ねえ、発注はどうなった?」また聞いてみる。「マリコ、実は話があるんだ。これを言えば君は分かってくれると思うんだけど。ピセッリに親父の代から長年発注をしていることは前から言っているだろう?実はあと2ヶ月発注を続ければ、ピセッリから表彰されて金一封がもらえるんだ」おい。てことは何か?アルベルトは目前に迫った金一封が惜しいがために、誰も認めない、儲けにもならないあのパニーノ発注をやめないということか?「いくら、貰えるの?」「いやぁ、はっきりしたことは分からないんだけど、多分2000ユーロくらい。」つまり26万円くらいである。

確かに少ない額ではない。しかし毎日手作りパニーノを30個でも売れば、1ヶ月のパニーノによる儲けは人件費や材料費を差し引いても700ユーロにはなる。これを3ヶ月やればそんな2000ユーロの、一見すると高額な金一封なんてペイできてしまうのだ。この論理が、アルベルトには全く理解できないのである。

「頭の悪い上司ほど困るものはない。」とニッポンでも言う。「上司を説得することから全てはスタートする」とも言う。それじゃわたくしの環境は悲惨すぎる。マイ・ボスであるアルベルトを説得する、理解させる、舵取りする、なんて、わたくしには到底できないタスクなのだ。

その結果報告をしに、タバコ屋のシモーネに立ち寄る。「本当かよ!?・・・全くさびしいよ。俺はさびしい。賞金のために俺たちはあの不味いパニーノを食わされるのか?あいつ(アルベルト)の頭は本当に空っぽだよ。マリコ、落ち込むこたぁねえよ。それがアルベルトなんだよ。所詮ボンボンだからよ、儲けとか考えちゃいないんだよ。」「それだけならいいけどさ、アルベルトは、店を良くしようとかお客さんの喜ぶ顔を見よう、とかそういう基本的な気持ちが抜けちゃってるんだよ」「・・・問題だよな。でもそれで今まできちゃってるんだ。もう47歳のアルベルトが、これから熱血バールマンに変わると思うか?まあな、でもあいつは根はいい奴なんだ。ちょっと脳みそが足りないだけで、本来はお人よしのいい奴なんだ」アルベルトはずるい。何だかんだ言っても、人から嫌われない。

夢のように過ぎ去った3日間のパニーノ大作戦。ずっと続けるつもりでいたから、写真すら撮っていない。あのモノが詰まったショーケースは、わたくしの脳裏に焼きついているだけ。いつもの駄目男たちも、常連たちも「あれ?もうパニーノやらないの?」などと最初こそ残念がっていたが、あっという間に以前のバール・アルベルトに戻る。誰も、何もバール・アルベルトには期待していないのだ。何もなけりゃないで、それで別に構わない。

将来の夢:バール・アルベルトをのっとること