クーラーのない夏

L'ESTATE A PERUGIA SENZA L'ARIA CONDIZIONATA

もはや有り得ない。東京の生活からクーラーを除外するなど。しかし思えばペルージャでの約3年、夏といえどクーラーの姿はなかった。まずクーラー付きの家というものを殆ど見たことがない。だから東京でも我慢しなくては、というのではない。そもそも気候が全く違うのだから。四季があるのは同じでも、カラッとした地中海性気候の上、山間都市であるペルージャはローマやフィレンツェボローニャなどよりも間違いなく過ごしやすい。軽井沢のような日中の涼しさはないが、それでも朝晩は気温が下がって気持ちの良い風がそよぎ、暑くて寝苦しい夜など記憶にないのだから、東京の気候とはかけ離れている。

例えば築何百年の家。暑さを回避するために「風通しのよさ」が重視されている。家中のドアと窓を開ければ、スーッと風が通る仕組みになっている。イタリア語では「CORRENTE D'ARIA(コレンテ・ディ・アーリア)」と言われるこの「風通し」、今でもペルージャのような田舎街では大切な夏の要素である。チェントロにはまだまだ石作りの家も多いため、家の中へ一歩入るとひんやり涼を感じる、ということも少なくない。

バール・アルベルトで仕事をしていると、カウンターにやってくる自堕落な常連たちが夏の暑さに不満を並べ立てる。「もうやってらんないよ、この暑さじゃ何にもできない。」「10年前のペルージャはよかったよ、もっと涼しかった。」「だよな。最近めっきり湿度が高くなって。体に悪いことこのうえないよ。」「環境破壊だよ。都市化が進んでるから」暑かろうが湿度が高かろうが、涼しかろうが雪が降ろうが、天候に左右されることなく仕事をしないのがアンタたち。そういう奴に限って己の非業を天候のせいにするものである。さらに、ペルージャくらいで都市化発言が出るとは全くもって驚きである。

バール・アルベルト自体は古い石作りであるため、店内は比較的ひんやりしている。勿論冷房などないが、まあ耐えられる暑さである。ただし。わたくしが日中スタンバイしていなくてはならない場所は、バールのカウンター内、つまりカフェ・マシーンの前である。このカフェ・マシーン、常に稼動していて熱を発するため、背中が燃えるように熱く、逆に言うとその暑さだけがわたくしの夏の思い出である。

燃える背中を冷やすため、客がいないのを見計らって外の店前テラス席へと逃げ、大きなカサの下、日陰に身を寄せる。そして客がやってくるのを見るや否や、店の中へ舞い戻る。そういえばこの行動が、常連のバカの1人に告げ口されたことがある。「マリコはいつも外にいてちゃんと店番をしていないようだ」と、そいつはこっそり店主アルベルトに言い放ち(どうせゲームの換金をやってあげなかったとか、ウイスキーを多めにいれてやらなかったとか、そういったことの逆恨みである)、アルベルトが困った顔をしていたのを思い出す。いつも外にいたわけじゃあるまいし。誰かと違って仕事は全部やっていたのだから、文句を言われる筋合いはないのだが、「あからさまな”告げ口”」はイタリアの田舎町では日常茶飯事なのだ。

♪夏がくれば思い出す♪わたくしの場合、こんな日常の些細なことばかりである。