海外での悩み→歯医者

イタリアへ到着して3日目の朝のことを今でも鮮明に思い出す。ニッポン出発前にあわてて駆け込んだ歯医者で治療した歯がジンジン痛み出し、なんと詰めものがポロッと取れてしまったのだ。あう。先行き真っ暗である。これから先まだまだ長いというのに、詰め物が取れた穴あきの歯で、どうやってイタリアンを楽しめというのか。いや、問題はそうじゃない。語学もままならない状況で、イタリアで歯医者へ行くというのはなかなか勇気のいることである。ああ、どうしよう。

健康保険証もないし、歯医者がどこに生息しているのかも分からない。ニッポンのように街を歩けば「○○歯科」と大きな看板に出くわすことも、ここペルージャではありえない。そう悩んでいるうちに、詰め物の外れた穴あき歯で巧みにイタリアンを食べる術を覚え、「でもこのままじゃまずい」という一抹の不安を常に抱えつつも5ヶ月が過ぎてしまったのである。

その頃アルバイトをしていた大学横のパブ「ダウンタウン」である夜働いていると、何と「わたしは歯医者だ」という客がやってきた。その名もコジモ。背は低く、南イタリアはプーリア州レッチェ出身で、なかなか愛嬌のある面白そうな47歳のオヤジである。聞けばダウンタウンのオーナーをはじめ、常連客の間では知らないひとはいない、正真正銘の歯医者であった。しかも開業医。おお。わたくしはこの出会いを待ち望んでいたのだ。わたくしの歯、何とかしてもらえませんか?

コジモはダウンタウンのオーナーだけでなくわたくしの同居人ロセッラも勿論知っているし、トーマスもイヴァナもみんな友達である。どこの馬の骨かも分からない歯医者ではなく、みんなが知っている歯医者である。こんなラッキーなことはない。「よかったじゃないの、歯見てもらいなさいよ」とロセッラにも勧められた。

しかし。結果はそう甘くはなかった。コジモはこともあろうにわたくしを見初めたのである。ありえない展開である。書き忘れたがコジモは独身で、病身の母親を介護しながら開業している。誰もが「立派なヤツだよ」と賞賛するがその一方で「結婚相手を相当探しているらしいよ。母親もいるしな」とささやき合う。そもそもコジモにはニッポンジンの大親友がいるため、東洋人に対する偏見もなく、わたくしに対してもいつも優しかった。
しかし優しさは徐々にグレードアップする。時には朝の4時、5時までわたくしが最後のグラスを洗い終わるまでカウンターに座って待っていることもあり、そのたびにその意図をまるで無視して「じゃあね、お疲れ様。チャオ」と走って家へ帰らねばならなかった。まあコジモの行動は非常に分かりやすかったから、ダウンタウンのオーナーたちの目にも明らかで、どちらかといえば周囲は楽しんでいたに違いない。

ある日コジモがこう切り出してきた。「僕の歯科医院で働いているアシスタントの子が今月いっぱいで辞めてしまうんだ。もし君さえよければマリコ、大学の授業の合間にでもうちで働かないか?学校と両立できるようにするし、場合によっては夜ダウンタウンの仕事を続けることだって可能かもしれないよ。」「いやでもわたし、そんな経験ないから無理。歯科助手なんて。」イタリアへやってきていきなり歯医者で働くなど、驚くべき方向転換である。わたくしが望むのはバールマリコであり、デンティスタ・マリコではない。

「大丈夫。全部教えるから。それに僕はダウンタウンや他のバールと違って、ちゃんと契約を交わして合法的に働いてもらうから。労働ビザを取得する手伝いもできると思うよ。」それを横で聞いていたダウンタウンのオーナーたちは、大騒ぎし始めた。「マリコ、そんなチャンスなかなかないよ。コジモに頼んで歯医者で働かせてもらいなよ。ヴィザ取得にも繋がるかもしれないし。」「いやいや、いっそのこと結婚したらいいんだよ。マリコももう分かってるだろ?コジモは真剣にお前のことを気に入っていて、だから契約もするんだよ。それが愛の証さ。」「そうだよ。コジモが歯医者、マリコは助手&事務ってな具合で二人三脚で生きていったらいいじゃないか。」

おい、お前ら。いい加減にしなさい。そこにわたくしの意思も愛も存在しないではないか。そりゃイタリアに住みたいし、まだまだ帰国したくないが、それにしたって愛のない結婚はイコール詐欺である。イタリアの新聞を賑わせる「滞在許可証を取得するために偽装結婚する東欧女性たち」系の記事が頭をよぎる。冗談じゃないぞ。幾らなんでもそこまで。

まあそんな状況で、狭い歯科医院でコジモと二人っきりで働くなんぞ、自ら危険に身をさらすようなものである。結婚は大げさにとらえすぎだとしても、コジモとの紙一枚の契約のお陰でイタリアに滞在できる、という大きな借りはわたくしにとってヘビーすぎる。その紙切れでコジモに縛られるのか?すみません、彼は本当に人間的にとっても素晴らしい方なのだが、そこに愛は全くないのである。明らかに無理。

歯科助手の話は丁重にお断りしたのだが、その後もコジモは「歯見てあげるから来なさい。そうだな。13時頃来てくれればいいよ。まずはゆっくりランチでもして、その後検診しようか。」などと言い出す始末。ていうかアンタ、歯の治療になんでランチがセットになってくるのさ。

そんなわけで。手の届くところに歯医者がいながらも、到底そこにたどり着くことができず、約3年間も歯をほったらかしにしてしまったのだ。ああ無念。