貧乏暇なしの全て

barmariko2006-02-03

LA POVERA STUDENTESSA AVEVA TEMPO SOLO PER LAVORO
貧乏暇なしとは誠によく言ったもので、ペルージャにいる間は始終、身をもって痛感する毎日だった。いつだったか定年退職後にペルージャ外国人大学に留学へいらしていた、60歳代のニッポンジン男性がこんなことを言っていた。「充実した留学生活を送るためにはね、まず資金だよ。事前に計画して十分な資金を調達し、勉学に集中できる環境を作ることが大事なんだ。経済的理由で勉強に身が入らない、バイトしなくちゃいけない、で肝心の勉学がおろそかになっては見も蓋もないからね。」

よーく、分かっているつもりである。勿論。彼の言うことは100%正しいに違いない。しかし半年分の資金しか持っていなかったわたくしにとって、少なくとも大学のコースを修了させるためには、何とかして家賃や学費を稼ぐ必要があったのである。あとは多分・・・性格の問題で、悲しいかな勉強だけの毎日が耐えられない体と頭なのだろう。ペルージャに着いて3ヶ月目には、パブやバールで仕事を始めてしまったのだが、仕方ない。もともと学究肌ではないのだから、大学と家の往復では、わたくしの細胞は死んでしまうのである。わたくしにとっての大学とは、イタリアで生きるための必要最低限の文法や知識を得る場所であり、また「イタリアでちゃんと勉強しましたぜ」という公的かつ物理的な証書をもらうための場所だった。授業が終わればさっさとサヨナラ、バールがパブがユーロをチラつかせてわたくしを呼んでいる、という毎日だった。
しかし、貧乏もその度を過ぎると、心が病んでくるものである。一番貧乏がひどかったのは、去年の今頃。履歴書など何枚送っても返事すら返ってこない、就職口がない、大学はもう修了しているからただ滞在許可証を得るためだけに授業料を払うのは真っ平ごめん、かといって労働ビザに切り替えられるような仕事はない、バールやパブで合法的に契約を交わしてくれるところもない。いつまでビールを運ぶ毎日を続ければいいのか。いつまでバール・アルベルトで、怠け者の客を相手にモチベーションの下がるカフェを淹れ続けなければならないのか。こんなことでは未来はない。思い切ってローマやミラノに就職活動をしにいこうにも、その資金がないのだからペルージャから動くことすらできない。

いくらイタリアジンと仲が良くても、例えばクリスマスや復活祭、夏のバカンスなど、彼らのお祭りごとに参加したためしはない。何故なら、貧乏暇なしのわたくしは、いつだって働かなくてはならなかったのである。彼らがバカンスに行ってしまうとき、例えば2週間のクリスマス休暇。仕事先のパブでは全ての女の子たちが帰省してしまうため、必然的にわたくしは彼女達の分も毎日働かなくてはならなかった。無理やり、ではない。働かないとお金が入ってこないし、家賃が払えないのだから仕方ない。契約なしで働くとはこういうことである。時間給で働くため、休んだり遊んだりしていては当然稼ぎが少なくなる。イタリアジンのように1ヶ月バカンスなどでかけてしまっては、その月の収入はゼロになる。

もし合法的に契約を交わして働くことができれば、当然有給というものがあり、クリスマス休暇など会社が認めているわけだから、毎月の給料は変わらない。わたくしの場合、悲しいかなそんな契約は全く存在していなかったから、バカンスなどありえなかったのだ。毎月まとまった収入を得るためには、毎月働き倒さねばならない。彼らが「クリスマスは何をしてるの?よかったら家にこない?」とシチリアの実家へ、カラブリアの実家へと次々に誘ってくれるたびに断らねばならなかった。「ごめん、仕事あるから・・・」

「駄目だよーそんなニッポンジンみたいなことしちゃ!ここはイタリアなんだから、休みはきちんととらなくちゃ。」「でも、そしたら今月家賃払えないもん」こんな会話、今まで何回繰り返したか分からない。別に彼らのせいじゃないのに「留学資金がどこから出てると思ってんのよ。タダで滞在できるわけないじゃん。ここに住む権利を得るためにだって、毎月3万円かかるのよ(大学へ授業料を払う必要があるため)。気づけ、コノヤロー。」と勝手な被害妄想で苦しんだり。お門違いもいいところである。ああ、恥ずかしい。

街で友達に会って「コメ・スタイ?(どうよ?)」と聞かれれば、「アッバスタンツァ・・・(まあまあ)」「ペルケ?(何で?)」「だって仕事ないし、お金ないし、どうやって暮らしていいかわかんない、多分そろそろ帰らなくちゃ。」とお決まりの悲しい会話が始まり、わたくしの貧乏で仕事のない身上に「ミ・ディスピアーチェ・・・(残念なことだね)」と同情しつつ、「ほんとイタリアは嫌になるよ。僕らイタリアジンにだって、仕事はないんだから」といつの間にか彼らの問題へとすりかわる。果てなく続く不平・不満・不燃焼のオンパレードになるのだ。これがなんのストレス発散にもならないと、分かっているのに。

まあこんな感じで、いわゆるイタリアジンのバカンスシーズンというのは、わたくしにとって稼ぎ時であった。2004年の夏も然り。あちこちのバールやパブで人手が足りなくなるため、午前中はバール・アルベルト。夕方1時間休憩して、その後は野外映画館の横にたてられたキオスクで1人店番。翌朝はバール・フランコバリスタ。これらの店は全てガリバルディ通り沿いにあり、この道を毎日登ったり降りたりしながら、毎日の糧を賄っていた。スケジュール帳なしでは、毎日のこの複雑なシフトが覚えきれないほどに。

毎日カフェ1杯でもエクセル家計簿に付け、今月はあと幾らで家賃が払える、とか今月は食費にかけすぎた、あと2回はバイト入れなくちゃ、とか一喜一憂する毎日だった。月末になると、「うーん、どっかで1回日本食ディナーの企画かなにか大口バイトを入れなくちゃ・・・」と厳しい選択を迫られる。貧乏暇なしで働き通したペルージャ時代、まあトータルで見れば良いことも悪いことも、楽しいこともつらいことも、感動したことも涙にあけくれたことも、どっちもたくさんあるわけで。それにしても貧乏だったな、とつくづく思う今日この頃である。