日本語こそ難しい?

E'DIFFICILE LA LINGUA GIAPPONESE?
わたくしのお友達Sさんは、イタリア在住7年目である。最初の1年はフィレンツェ、その後ペルージャへ移り住み、現在はペルージャ外国人大学国際コミュニケーション学科の学生さんである。彼女には付き合って4年になるイタリア人の彼氏がいるのだが、彼女はよくわたくしに、その彼との間で引き起こる珍事件について語ってくれる。

2004年10月23日に起こった新潟県中越地震について、イタリアでも随時報道がされていた。ブラウン管に映し出されたのは、娘を地震被害でなくした母親。遺体の前で泣き崩れ、こう叫ぶ。「あんた、馬鹿よ」

勿論同時通訳どころか字幕も出ないから、テレビの前のイタリア人には何を言っているかさっぱり分からない。Sの彼氏はこの映像を見て、「ねえ、この母親はなんて言ってるの?」とSに聞いた。何て訳せばいいのか・・・暫く考えた後、Sはこう答えた。「sei stupida!(=you are stupid!)」

この後のSの彼氏の反応は聞くに及ばず、である。「ひどいじゃないか!?この母親は気狂いじゃないのか!?娘が地震で死んで、その遺体の前で、『バカ』とは何だよ!?」Sは焦った。「違うんだよ。直訳すれば確かに『バカ』っていう意味の言葉を吐いてるんだけど、そのまま汲み取っちゃだめなんだよ。昨日まではピンピン元気で生きていたのに、こんな地震ごときで死んじゃったアンタはバカよ、っていうさ・・・不甲斐なさやこの娘に対する愛情や深い悲しみの裏返しで、とても複雑な奥の深い言葉なのよ」

Sの彼氏はさっぱり理解しなかった。「全く意味が分からないね。そもそも母親が娘に、しかもその娘の遺体に向かって『バカ』って言ったんだよ?シェーマ(狂ってる)以外の何者でもないよ。そこに愛情があるって?言っていいことと悪いことがあるんだよ!悲しいんなら、悲しいって言えばいいじゃないか!あんな発言は非人間的だ!」そういって憤慨したのである。
親友アンドレアとSと3人でご飯を食べたとき、そんな話をしていると、アンドレアもSの彼氏と全く同じ意見を述べ、さっぱり分からないというように首を振った。そこでSとわたくしはニッポンジンとしての弁明を続けた。「日本語はさ、行間を読む言語なんだよ。」「分かったよ、その母親が本当は娘をとても愛しているというのは、それは信じるとするよ。でもそれはまた別問題だよ。だって地震で実の娘が死んでしまったんだよ?その悲しみをどうしてそういう汚い言葉で表現しなくちゃならないんだよ?むしろ不謹慎だよ。」

「・・・全然分かってないよ。『バカ』の裏にある悲しみを!」アンドレアは負けない。「そもそもさ、娘に向かって『バカ』って言うけどさ、この娘が好き好んで地震を起こして自ら死んでしまったわけじゃないだろう?彼女は被害者なんだよ?何でバカよばわりされなくちゃいけないんだ?」

どんなに努力しても、それを理解してもらうのは不可能に近い。彼らイタリア人にとってニッポン語文法は、構造的にみても非常にシンプルで分かりやすいものである。しかし、このニッポン語の「心」を一体どうやって説明しろというのか。皮肉にも国際コミュニケーション学科に在籍するSは苦笑した。「もうお手上げ」

イタリアでも日本文学は非常に評価が高くイタリア全土で流通している。ペルージャの本屋でも、三島由紀夫川端康成谷崎潤一郎村上春樹、(なぜか)吉本ばなな・・・などがズラリと並ぶ。しかし、Sの彼氏だけでなくアンドレアにも激論の末理解してもらえなかった私たちは、その日の帰り道ブツブツ不甲斐なさをぶつけ合った。「日本文学だってさぁ、イタリア人がどこまで理解してんのか、不明だよねー。絶対分かってないよ。三島由紀夫とかさぁ、読めるわけないじゃん」

それが何の不満解消にもならないことは百も承知だったが。