皆で食べるご飯

イタリア人は大勢でご飯を食べるのが、大好きである。ニッポンの場合、ひとつのテーブルを何十人もの人間が一緒に囲む、というシーンを今どき冠婚葬祭以外で見ることは難しい。イタリアの場合、特に田舎の家では必ず長い長いテーブルが、まるでその家の主であるかのように構えている。夏休みや復活祭、クリスマス休暇で、普段は遠方に住んでいる子供達が帰省したり、親戚一同がここぞとばかりに大集合したりするため、大人数用のテーブルというのは必需品なのである。

「親戚中で1台あれば充分なんじゃないの?そんな大テーブル。」と友人のアンドレアに聞いた。「違うんだよ。今日は叔母さんの家で、明日は祖母の家で、じゃあ明後日は我が家でやりましょう、ってなふうに親戚一同が場所を転々とするんだよ。ジプシーの大移動みたいに。それも親戚付き合いの一つなんだろうけど、全く疲れるったらないよ。そんなわけで各家に、とりあえず全員集合できる長テーブルは必要なんだ。」

ガリバルディ通りのタバコ屋シモーネの家にも、長いテーブルがある。彼の家は2F建てなのだが、トイレも浴室もキッチンも居間も全て2Fにあるため、普段は1Fを使わない。では何のために存在するのかと言えば、そう、人を招くためである。長いテーブルのあるダイニングキッチン、どんなディナーにも勝るセリエAサッカーを観るためのTV、暖炉、1F専用トイレ。

もう3ヶ月も前の話になるが、ある日シモーネがわたくしをディナーに招待してくれた。シモーネの息子(12歳)、シモーネの奥さんの父親マウロが、二人揃って誕生日を迎えるので、是非来てくれないかということだった。そんなプライベートなディナーに、わたくしなどが参加するなんて、申し訳ないと思ったのだが「何言ってんだよ!大勢がいいんだよ、教会工事のオヤジどもも皆くるからよ。心配すんなよ、楽しんでいってくれよ。」

結局その日に参加したのは、シモーネ、シモーネの嫁オリエッタ、誕生日を迎える息子、オリエッタの両親、オリエッタの姉とその旦那とその息子、教会工事のオヤジが6人、教会でフレスコ画の修復をしているフランチェスコとシモーナ・・・一体何の集まりなんだがさっぱり分からないディナーである。(これはわたくしのイタリア生活において、個人のお家ディナーとしては最大規模であることに、後で気づいた。)ちなみに12歳の息子は夜22時にはベッドへと追いやられ、同じく誕生日を迎えたおじいちゃんのマウロも、「年寄りはもう寝るよ、疲れた、疲れた」といって早々に引き上げてしまった。主役がいなくなっても、シモーネや教会工事の皆は夜中まで大騒ぎ、一体何本のワインやグラッパが空いたのか覚えていない。ま、大事なのは「主役」よりも「動機付け」である。
ところでイタリアでは、カップル同士や親しい家族同士でのディナー、というのも頻繁に行われる。2組、3組のカップルが集まって、レストランやピッツェリアへ行ったり、お互いの家へ招待したり、というのは非常によく見るケースだ。むしろ「週末にピッツェリアへピザを食べに行く」なんていうのは、二人っきりよりも2、3カップル一緒に行くほうが、とても自然な流れといえる。

わたくしの同居人ロセッラも然り。週末は必ず親しい2カップル揃って、レストランでディナーが基本である。「大勢いるほうが楽しいじゃないの。それにいつも二人っきりはイヤ。」と言う。ミラノに住んでいるニッポンジン友達もこう話す。「ミラノはさすがに都会だから皆仕事があるわけだけど、ビジネスマンも仕事は18時に切り上げて、その後は友達やカップルで食前酒飲んだり、ご飯食べに行ったりっていうのが、普通だよ。週末ともなればカップル数組でご飯食べに行ったりしてる。」とにかく複数のカップルが一緒に動くこと、これが何故かとても多いのである。

ニッポンの場合、これは物理的にとても難しい。例えば2カップルが一緒にご飯を食べるとして、その4人がペルージャのように一つの街に住んでいるとは考えにくい。皆それぞれの仕事場から最も近い集合場所へ繰り出し、ご飯を食べてそれぞれ電車で四方向へ帰っていくのだ。カップル同士で気楽にご飯を食べるには、ちょっと程遠い理想と現実がある。無論物理的理由だけではなく精神的な要因もある。ニッポンジンはイタリア人に比べると「プライベートを守りたい」度が遥かに高い。彼氏や彼女を友達同士の席には連れて行きたくない、奥さんを同席させたくない、自分だけの世界も持っていたい・・・

テーブルの長さについて触れてみたかっただけなのに、結局いつも最後はイタリア人とニッポンジンの精神構造の違いや文化の違いに行き当たる。ま、そんなもんか。