思いやりの心について

barmariko2005-06-17

PARLIAMO SULLA GENTILEZZA

アンドレアはいつもため息をつく。「本当にイタリア人のマナーの悪さは見ていて恥ずかしいよ。イタリア人である僕が言うのも何だけど。」車の運転マナーの悪さ、電車の遅延、連絡もなしに休む大学の教授、機能しない警察、無愛想な郵便局や銀行の窓口・・・挙げたらきりが無い。「相手のことを全然考えてないんだよ」とアンドレア。

フォローの余地もない。しかしイタリア人は基本的に親切である。目の前で困ってるひとがいたら、すぐ手を貸してくれる。例えば駅で重い荷物を抱えていたら、すぐさま誰かが飛んでくる。電車の乗降りだってトランクは必ず誰か側にいるひと(勿論知らないひとである)がやってくれる。道を聞けばとことん説明してくれるし、分からなければ分かるひとを探すのを手伝ってくれる。バスの中で、お年寄りがいれば直ぐに誰かが席を譲る。ニッポンのように「優先席:お年よりやカラダの不自由なひとに席を譲りましょう」という張り紙などわざわざしなくても、自発的に行われるので問題ない。

例えばある日わたくしは大量の食料買出しをして、大きなビニール袋を3つ抱えオッチラオッチラ道を歩いていた。ようやく辿り着いたペルージャの我が家。パラッツォ(建物)の外玄関を鍵であける。しかしこの木の扉は異様に重く、手で支えていないとバタンと閉まってしまう。その為片手でドアを押えながら、これまた重い買い物袋を1つずつ中に入れようとすると、さっと背後から誰かがやってきて荷物を全部中へ入れてくれた。見ればわたくしのパラッツォの前をたまたま歩いていた、若いカップルである。小さなことだが、とても有難い。
わたくしが思うに、こういう親切さは、目の前で起こっていることに対して生まれるものである。「あ、このひと困ってる」というのがダイレクトに分かる場合、イタリア人はすぐさま行動を起こして、助けてくれる。ちなみに、この親切心はニッポンジンが苦手とするものかもしれない。知らない人を手助けする、つまり知らない人に関わる、話しかける、という行為にとても億劫である。恥ずかしさが邪魔をするのかもしれない。いくら重い荷物を抱えているからといって、ニッポンで誰かが手を差し伸べてくれたことは一度もない(勿論、知らないひと同士で、が前提)。その昔ニッポンで、捻挫をして松葉杖で電車に乗ったのに誰も席を譲ってくれず、電車が大きく揺れたときに松葉杖が倒れてしまったことがある。松葉杖を拾ってくれたひとはいたが、それでも席をかわってくれた人はいなかったことを思い出す。

話を戻そう。目の前で困っているひとがいるとき、多くのイタリア人は思いやりの心を持って、快く助けてくれる。しかし、アンドレアが憤慨する(勿論わたくしも憤慨しているが)仕事をきちんとしない、甚だ迷惑な路上駐車をする、などという自分勝手な行為が他人に迷惑をかける、という点については全く考えない。自分の自己中心的な行動が、世の中に「困っている人」を増加させるのだということに気づかない。

アンドレアに言う。「だからさ、イタリア人は他人のことを考えてないって一口には言えないんじゃない?例えば道で誰かが困っていたら直ぐ助けてくれるし、ニッポンジンよりも遥かにそういう親切度は高い気がする。それも一つの思いやりだし、他人のためにやってることでしょう。でも。想像力がないよね。これをしたらよそ様に迷惑をかけてしまう、じゃあやめよう、っていう思考回路が欠けてる気がする。これも一つの思いやりの形なのに。不思議だよねぇ、思いやりに溢れてる部分と、そうでない部分が同居してるってことになるじゃない?」「なるほどねぇ。そこまで考えたことなかったけど。何でそんなこと考え出したの?」

だって180度逆にしたらニッポンジンだから。しかもニッポンジンの場合「ひとさまに迷惑をかけるな教育」が行き届いているから、マナー教育は筋金入りである。しかし、それが行き過ぎて「これをやると”教養がない”と思われる」「こんなことしたら非常識だと思われる」のが嫌だから、マナーを遵守するひとが多かったりする。注意されるのが嫌だから電車の中では携帯を切る。近所で後ろ指さされたくないからゴミ分別を徹底する。本末転倒なひとが実はたくさんいるはずだ。そしてこの発想はイタリアには存在しないのである。