イタリア人と車

barmariko2005-04-04


イタリアほど駐車マナー、運転マナーの酷い国もないのではないか。少なくともヨーロッパではそう認識されている。イタリアにやってくるドイツ人もイギリス人もフランス人も口を揃えてその酷さを指摘する。(写真は橙色のFIAT500 チンクエチェント。イタリアの車は持ち主がいなければ本当に可愛い。)

まず声を大にして言いたいのが、ウィンカーを出さないことである。これ以上の初心者レベルもないだろうに、多くのイタリア人はウィンカーも出さずに車線変更したり、左折したり、やりたい放題である。わたくしの家のすぐ傍、大学の真横に一本の道、ファブレッティ通りがある。直進もできるし、左に曲がって大学の裏手へ降りていくこともできる。ある日わたくしは、ウィンカーを出して曲がってくる車がいないのを確かめて、この通りを横断しようとした。と、突っ込んでくる車。運転していたのは50歳前後のシニョーラだったのだが、「ケ・カッツォ・ファイ!!(何してんのよ!)」と、こともあろうにわたくしに向かって怒鳴るではないか。ちなみにカッツォとは直訳すると睾丸という意味だが、このように怒りをこめて英語のファック・オフのような意味合いで付属語としても使われる。

ていうか、あんた、何曲がってきてんのよ、ウィンカーも出さずに!と100%こちらが抗議すべき状況である。ある日この状況を数字で見てみようと思い、ファブレッティ通りに3分間立ち、通り行く車を観察した。何と驚くべきことに、左へ曲がっていく車の8割がウィンカーを出していなかった。これでは交通ルールもあったものではない。

ウィンカーを出す癖がないのだから、当然ほかの車のウィンカーにきちんと目を配るひとも少なくなる。ある日ジュセッペの車でスーパーへ買出しに行ったときなど、こちらはきちんとウィンカーを出して斜線変更しようとしているのに、それを全く見ずに後ろから猛スピードで車が突っ込んでくるではないか。あと数センチのところであやうく接触は免れたが、ジュセッペも後ろに乗っていたアンドレアもその怒りようは凄まじかった。「+”#$q>k<~~|||*a~w#errgge<(‘&cx~!!!」もはや日本語への訳は不可能である。

車庫入れや駐車の仕方も酷い。そこが大通りで、後ろから前からやってくる車がいたとしても、歩道を歩いてくる人間がいたとしても、その空いたスペースに車をぴったり駐車することしか考えていない。一点しか見ないのである。前も後ろも横も見ず、駐車することだけに集中している。前後左右の確認というものが存在しない。当然ながら歩道を歩く我々は常に車には気を配らなければならない。イタリアの車は何をしだすか本当に予測不可能だからである。

またほんの僅かのスペースに無理やり駐車してしまうため、いざ出ようとエンジンをかけた瞬間に(イタリアの車はその9割がマニュアル車であるから)ガクンと車体が沈んだり前へ少し進んだりし、当然ながら前に止まっている車の後方へゴツッとやるのだ。冗談ではなく、このシーンは数え切れないほど見たし、車をちょっとぶつけるくらいのことは何とも思っていないのだろう。罪の意識など全く感じずに、さっさと走り去ってしまう。
バール・アルベルトやシモーネのタバコ屋があるガリバルディ通りも酷い。ちょうどバールの前に僅かながら駐車スペースがある。更にここには自衛隊ペルージャ本部もあるため、車の出入りが激しい。そして隣では教会工事も行われているため、一日中トラックが出たり入ったりする。わたくしがバール・アルベルトで働いているとき、1日に決まって何回も困った顔をしたひとたちがやってきてこう尋ねるのだった。「あの赤いボルボ、誰のか分かるかい?俺たちのトラックが出られないんだよ。後ろに止めやがって」とドメニコ。「マリコ、あのチンクエチェント、誰のかわかるか?ったく俺は急いでるんだよ。息子を病院に連れていかなくちゃいけないっていうのに!これじゃあ出られない。」とシモーネ。「ちょっと、シニョリーナ。あの青いBMWの持ち主はここにいないかね?」と自衛隊官員。シモーネも教会工事のドメニコも行き止まりになった小道の一番奥に自分たちの車を止めるのだが、その後ろに平気で駐車する馬鹿者どもがいるわけだ。道はそこで終わりだから、後ろを他の車で埋められたら身動きがとれないのである。

さらに酷いのは、いやここまでくると笑えるのだが、とんでもない駐車をしてさっさとどこかへ行ってしまった車の持ち主の中には、車のフロントにメッセージを残していく者もいる。「床屋で散髪中。ガリバルディ通り10番地にて」つまり、用があるなら、自分はここにいるから来い、という意味である。そしてわたくしたちはわざわざ散髪中の彼を呼びに行き「あの、車出したいんですけど」とお願いするわけである。

また駐車スペースとして(勝手な判断で)よく利用されるのが、バスの停留所。わたくしにとって、ここはあくまでもバスが止まるスペースであるが、何と一般者が平気で駐車する。大学前の停留所など常に一般乗用車で埋まっているため、バスは道路のど真ん中に普通に止まり、当然ながら後方の車はストップをくらってそこから渋滞が生まれる。

しかしそのバスの運転手も負けずに酷い。信じられないのは、携帯でお喋りしながら運転するひとが多いことである。かかってきた電話には普通に出て、ディナーの約束をする。ペルージャはご存知山間都市であるから、当然山道が多く、道幅も狭い。携帯電話で話しながらの大型バスの片手運転は見ているだけで恐ろしい。当然運転も荒いし、手すりなしではとてもではないが立っていられない。ある日余りに乱暴な運転に見かねて、子供連れの一人のシニョーラが「ちょっと!豚や馬を乗せてるんじゃないのよ!わたしたち人間なのよ、子供もいるんだから!いい加減にしてよ!」と大声で抗議していたが、尤もである。

ところで復活祭の後にシチリアから帰ってきたジュセッペ、プーリアから帰ってきたアンドレアが口を揃えてこう言っていた。「ペルージャはまだ常識内だよ。南イタリアの秩序の無さといったら!ぺルージャが恋しくてならなかったよ。」「ちょっと、何言ってんのよ。わたしにはペルージャが限界よ。これ以上酷いってどういうこと?」「例えばさ、対向車が知人の車だったりするだろう?そうすると平気で道の真ん中でストップしてお喋りが始まるんだよ。後ろで車が何台もつかえてたとしてもだよ。あれには参るよなあ。100歳くらいのじいさんとかならまだ許すけどさ、老若男女年齢問わず、周りのことを考えてないんだよ。」

南イタリア、太陽の国シチリア、響きだけは素晴らしいが、南に住むことなどわたくしにはとてもではないが出来そうにない。