食前酒

イタリアには食前酒を楽しむ文化がある。夕方17時から20時くらいまで、バールではカフェを飲む人よりも食前酒を楽しむ人が圧倒的に増える。代表的な食前酒としては、カンパリソーダ、マルティニ・ビアンコ、勿論ビールやグラスワイン、プロセッコ(発泡ワイン)等もポピュラーである。わたくしがバールで働いていたときは、カンパリ・ジンといってカンパリソーダにジンを30CC加えたもの、カンパリにプロセッコを少し加えたもの等も人気だった。食前酒としては強めだが、ネグローニも忘れてはならない。ジン、マルティニ・ロッソ、カンパリを同量ずつ合わせたもので、わたくしの一番のお気に入りである。

2年ほど前ミラノに住む友人クリスティアンとマッシモを訪ねたとき、3人で食前酒を飲みに街へくりだした。というのも大都会ミラノでは、究極の食前酒文化が存在するからである。ミラノ、ということは物価が高い。当然食前酒も高い。1杯のカンパリ・ジンが7ユーロ(今なら約1100円)とは東京顔負けの価格である。がしかし、どのバールでも山盛りの前菜がお腹一杯食べられるのである。それはバールによっては前菜の域を超えている。例えばわたくしたちが向かったバールでは、サラミ、チーズ、イタリアン玉子焼き、オリーブ、トマトとバジルのブルスケッタレバーペーストブルスケッタ山盛りの皿が、食前酒1杯につき付いていた。わたくしたちは3人であったから、当然3皿がまず振舞われ、食べきるごとに更に新しい皿が運ばれてくる。その後わたくしは夕飯が全く食べられなかったのを覚えている。

これがミラノの食前酒風景、日本円にして1000円前後でおつまみ食べ放題。もはやこの前菜に力をいれないバールは生きていけないほどである。食前酒などどこへ行っても味はさほど変わらないのであるから、人は美味しいつまみがあるところに集まるのである。しかしこれはあくまでも大都会ミラノでの話しであり、我らの田舎町ペルージャとなるとまた別問題である。いくら前菜が食べ放題だからといって、1杯7,8ユーロの食前酒を楽しめる文化が、若者や留学生の多いペルージャではなかなか育たない。

ある日アンドレアが、ニッポンの食前酒といえば?と聞いてきた。「ない」「ないって、そんなことないだろ?例えばマルティニ・ビアンコはいつ飲むの?食事の前じゃないの?」「うーん、難しい。だって食前酒を楽しむ文化がニッポンにはない。カンパリもマルティニ・ビアンコもニッポンでは知られているし、どの店にもあるよ。でもどちらかと言うとバーなんかで食後にチビチビ飲むかも。」「勘弁してくれよーー。食後にカンパリ?」「それどころかニッポンジンはご飯食べながらカンパリ系のカクテル飲んだりするから。」

事実、ニッポンには食前酒、ご飯中に飲むもの、食後酒、という区分をきっちり持ってお酒を飲む人が少ない。更に居酒屋で呑みも食事も全部一緒、というのが基本である。その居酒屋へ行く前にじゃあまず食前酒を一杯、という発想はない。しかし東京で働くひとにとって、24時最終電車には乗らなければならない現実を考えると、仕事の後の自由時間には限りがあり、ディナーの前に食前酒をゆっくり楽しむ時間は物理的にないであろう。

アンドレアは納得しなかった。「じゃあ食事の前には何にも飲まないの?ビールは?酒は?焼酎は?例えば梅酒なんか冷たく冷やしたら美味しい食前酒になると思うよ。何かあるだろう?食事前に飲むものが。」イタリア人である彼は何とかして、ニッポンジンが食事前に飲むものを知りたがった。「例えば割烹料理屋に行ってコース料理を頼むと一番最初に食前酒として梅酒がちょこっと出てきたりするよ。でも稀だな。飲み屋における梅酒はあくまでもご飯のお供。あ、でもうちのおばあちゃんが昔、夜寝る前とかお風呂あがりに手作りの梅酒をロックで飲んでた。てことは食後酒にもなる?」

「いまいちピンとこないなあ。ニッポンはまじめな国で、ご飯前に飲む風習はないの?」「そんなことはないよ。今思い出したけど、うちの父親はご飯前によく一人で一杯始めてたもん。夏だったらビールに枝豆、冷奴てな具合に。ということは家庭では食前酒文化が成り立ってるね。」ご飯前に飲む、これは土曜日や日曜日、仕事のない日のニッポンのお父さん像であったかもしれない。更に外国へ滞在したことのある人がどんどん増え、西洋文化が広く知れ渡る昨今、ランチにグラスワイン、日曜日のブランチにスプマンテ、つまり日中から飲むスタイルは全く持って普通であろう。ただニッポンには、ご飯前に飲むことはあっても、イタリアのようにカンパリは食前酒として飲むもの、アマーロは食後酒、グラッパは食後酒といった明確な区分と拘りが存在しないのである。

ニッポンの逸品、酒と焼酎。これほど優秀なものはない。食事前にソラマメでチビチビやれる(つまり食前酒として成り立つ)し、食事中にも勿論大活躍、さらにご飯を食べ終わったあとでも例えば焼酎バーで再度チビチビやれる。凄いのは冷やしても、常温でも、熱燗でも楽しめる、1つで3度美味しいアルコールなのである。確かにニッポンにはイタリアにおけるカンパリのような食前酒を持たないが、持たなくてもやってこれたというのが現実かもしれない。酒も焼酎も七変化を遂げ、如何様にもどのシーンにも合わせられるのだから。

食前酒の話、結局どう切り上げてよいのか分からない。一つ確かなのは、わたくしは食前酒の文化が大好きであるということだ。イタリアにおける美点のひとつである。