復活祭

イタリアは目下復活祭(パスクア)の真っ只中である。そもそも復活祭とは、キリスト教徒にとってクリスマスと同様に大事な行事である。春分後最初の満月の次の日曜日に設定され、それが今年だと3月27日にあたる。つまり流動性で毎年変わるのである。復活祭前は、聖週間(セッティマーナ・サンタ)と呼ばれ、木曜日(ジョベディ・サント)はキリストが最後の晩餐をとった日、金曜日(ヴェネルディ・サント)はキリストが十字架にかけられた日とされ、前日土曜日は復活徹夜際でキリストの復活をみんなで祈り、そして日曜日を迎えるのだ。

更に翌21日は「天使の月曜日(ルネディ・ダンジェロ)」で祝日、25日は第二次世界大戦後のイタリア開放記念日となるので、学校や国の機関、商店からレストランにいたるまで、ニッポンのゴールデン・ウィークさながらの大連休をとることが多い。イタリア人は続々と帰省したり長期バカンスへと出発したり、すっかりお休み気分である。

バカンス前ともなるとあちこちで挨拶をかわすイタリア人を見かける。「パスクアはどこへ行くの?僕は明日実家に帰るよ。じゃあよいパスクアを!(ブォナ・パスクワ!)」これが夏休みともなると、イタリアではいまだ1ヶ月の長期休暇が普通であるから、帰省前の挨拶回りにいそしむイタリア人の姿が頻繁に見られる。皆さんおそらくピンとこないに違いない。例えば1ヶ月の休暇、荷物の整理をして部屋を片付けて出発にむけて準備万端、さあここで友人知人間の挨拶回りに行きましょうというわけである。イタリアで非常によく見られるスタイルである。帰省前の友人から「わたし明日出発なの、今日の夜ダウンタウンへ行くつもりだけどもしよかったら寄ってくれない?挨拶したいから」「僕今夜出発なんだ。夕方5時頃バールにいるつもりだからもし近くにいたら来てくれよ、挨拶したいから」等と電話がかかってくるのが常である。

むしろペルージャのような小さい街で誰にも何も言わず休暇へと出かけてしまったらちょっと冷たい奴と思われることもある。パスクワの前には「ボォナ・パスクワ!」、夏休みの前には「ボォナ・バカンツァ!」、クリスマスの前には「ブォン・ナターレ!」といちいち挨拶を交わすことが、バカンスの始まりなのである。東京に慣れてしまったわたくしには当初とても新鮮で「人間らしい素敵な習慣だ」」とひとつの教養のように思っていたが、案の定今ではちと面倒くさい。ニッポンへ1ヶ月帰省したときも、出発前日は一日中この挨拶回りに時間を費やしたような気がする。それこそ午後中入れ替わり立ち代り別のイタリア人と一体何杯のカフェを飲んだか分からない。これで全員に挨拶をしたと思っても大体誰か漏れていて、イタリアへ戻ってきたときに「どこへ消えていたの?挨拶もなしに行っちゃうから」と言われたりするのである。

そもそも復活祭はキリスト教の行事であるが、いくらイタリアがローマ法王のお膝元だからとはいえ、今の若者で敬虔なカトリック教徒というのはわたくしは殆どお目にかかったことがない。彼らの両親世代になるとまた別なのだが、若者世代にとってはもはや国のお祭り、お休みがとれて万歳三唱というだけである。むしろかれこれ2年半、わたくしはローマ法王や教会に対して前向きな意見を持つ知人に出会ったことがないのが現実だ。例えばバール・アルベルトの教会工事のおじさんたちは、皆真面目なカトリック信者であり、十字架のネックレスを胸に仕事に励む。がしかし、ローマ法王や教会という組織に賛成かというとそれは別問題である。

少し話しがそれるが「イタリアを駄目にするのはローマ法王と教会という組織」と言うイタリア人に何度出会ったことか。まあそれはいつもの「人のせいにする」のが上手いイタリア人の一面でもあるが、それにしてもローマ法王の存在に大賛成な知人には出会ったことがない。その反面テレビ国営放送では「ローマ法王が・・・」とまるで洗脳活動のように必ずトップで何かコメントがあり、友人のアンドレアなどは我が家に遊びにくるたびに「マリコ、テレビ見た?ローマ法王が大事な挨拶なさってるよ!」と馬鹿にしっぱなし、それはもう唾を吐きそうな勢いなのである。

何はともあれ、あと1週間はここペルージャも閑散とするであろう。幸いなことに天気には恵まれ、素晴らしい太陽がさんさんと降り注ぐ毎日である。