ラ・ルムエラで和食のディナー

それは2週間程前のことだった。ルチャーノとララの店で、カフェ・モルラッキ寿司事件の酷い有り様をぶちまけていると、側で服を選んでいたララの親友ニコリーナがわたくしに言った。「ねえ、それならうちのオステリアで日本食ディナーをやってくれない?大丈夫、うちのオーナーもキッチンも本当にブラボーだからマリコを上手く補佐してくれるわよ。カフェ・モルラッキみたいなことには絶対ならないから。」ニコリーナペルージャ外国人大学から歩いて5分、ペーサ門のすぐ脇にある「オステリア・ ラ・ルムエラ」という地元イタリア人に大人気のオステリアのキッチンで働いているのだ。

「駄目駄目。わたしコックの経験なんてニッポンでもないし、入ってくるオーダーを次々にさばいてとか絶対無理。食前酒タイム用に寿司や前菜だけとかケータリングなら勿論構わないけど、そんな大層なディナーは出来ないよ。そもそもラ・ルムエラはペルージャでも美味しい店として有名じゃないの。もしわたしが変なもの作ってその名を汚したら大変だし。」「でもマリコは家でよく友達招いてディナーやってるじゃないの。10人分くらいは作ってるんでしょ。10人分も30人分も同じ。前菜だけなら50人分とか一人でやってたじゃないの。だったら大丈夫。あとは指示してくれればその通りに動くから。ともかくうちのオーナーと一度話してよ。彼らも新しいことやりたがってるから。」

ラ・ルムエラのオーナーは二人コンビで、実は両方ともわたくしは知っている。一人はコック長のロベルト、もう一人はグラウコでホール長、二人と知り合ったのはもうかれこれ1年半以上前、ブローバルトというガリバルディ通りにあった小さなパブでだった。つまり飲み繋がりである。ペルージャのような小さい街では夜の飲み仲間がそのまま昼の仕事に繋がったりするから面白い。あのトーマスもこの二人のことは高く評価していて、ラ・ルムエラには頻繁に顔を出している。

さてニコリーナと話した3日後の夜、わたくしはオーナーとスタッフ総勢5人に試食させる為、和食7品を自宅からラ・ルムエラに運んだのだった。その時のメニューは「スモークサーモンの海苔巻き」「焼鮭のチラシ寿司」「野菜と昆布の浅漬け」「野菜入りの出汁巻き卵」「鶏の唐揚げ」「ヒジキと白インゲン豆の煮物」「チキンと長葱の照焼き」である。今まで何度と無くイタリア人にも外国人にも和食は味見させていたが、こんな大層なリストランテでは勿論初めてであるから流石にわたくしは超緊張していた。何しろこのメニューはお袋の味、家庭料理そのものであり、リストランテでコース料理として出すなんてとんでもないではないか。が、食べ始めるや否や彼らは「和食ディナー、イケるイケる!」と大確信し、「35人分でいこう」と30分後には全て決まってしまったのである。
特に照焼きの人気はいつでも絶大である。あの甘辛いタレは必ず外国人に受け入れられる。わたくしのイタリア人の友達は「テリヤキはイタリア人の嗜好がピッタリくる味なんだよ。マリコに誓うよ。テリヤキはイタリアで絶対成功するから」と豪語する。試食させる度に「ボニッシモ!(美味しすぎる)」と感嘆の声が上がる。ラ・ルムエラのコック達も例外ではなく、照焼きの味には脱帽だった。照焼きなんぞタレすら作ってしまえば、何てことはない超お手軽弁当メニューであるのだが。

コック長でありオーナーであるロベルトは「浅漬け」もいたく気に入っていた。「これは箸休めみたいなもの?ちょっとつまむのに最適だね。」と国は違えど感じることは一緒らしい。今回の浅漬けには千切りにした生姜と昆布を一緒に漬け込み、食べる直前に煎りゴマとかつお節をかけたのだが、問題なく受け入れられた。小麦粉ではなく片栗粉をはたいて揚げる唐揚げは、普通の揚げ物と違ってカラっとサクっと軽く仕上がる。それを見て「おおおっ」と感動するコックたち。

ラ・ルムエラには35席入る部屋が2つある。彼らは一つの部屋を彼らの、つまりイタリアンの通常ディナー用にし、もう一つの部屋を完全に和食ディナー用としてわたくしに提供し、給仕人も一人専用に付けるという。メニューは全てその夜試食したものが見事彼らの気に入ったのでそのまま採用された。ただ前菜、第一の皿(パスタ、スープ、リゾットのいずれか)、第二の皿(肉か魚)、とコースの順番が決まっているイタリアンに順じ、前菜の皿を「ヒジキ煮、唐揚げ2種、出汁巻き卵の盛り合わせ」、第一の皿を「海苔巻き、チラシ寿司、浅漬けの盛り合わせ 味噌汁付き」、第三の皿を「チキンと野菜の照焼き」と組み合わせることにした。

気になる御値段は、この和食惣菜コースにワインがついて1人25ユーロ(約3500円)となった。ワインと言ってもハウスワインではなくサルデーニャの上質の白ワインが2人で1本付けられる。この価格はラ・ルムエラで通常のイタリアンを食べるのと大体同じである。「ミラノやローマの日本食レストランは1人あたり40ユーロはとるからね。刺し身盛り合わせや寿司が付くと60ユーロはくだらない。ワインもついて25ユーロなんて超良心的だよ」とロベルトは言うが、そもそもコックのレベルが違うので当然である。ミラノの一流割烹の板前さんが作る和食、コックなどやったことのないわたくしが作る家庭料理、ワインどころかグラッパも食後のお茶も肩揉みサービスまでお付けしてあげたいくらいである。更にわたくしがどれくらい稼げるかというと、このディナーを2回やれば月の家賃が払えてしまう。

メニューは筆ペン(祖父の葬式の時、葬儀屋が大量に置いていったのを何かに使えるかもしれないと思い、本能でニッポンから持ってきていた)で日本語とイタリア語で書き、更に下手なイラストも添え、尚且つ原材料も全て明記した。筆ペンは偉大である。筆ペンで描くだけでオリエンタルな雰囲気が漂い、何も知らない欧米人を唸らせる威力がある。

しかし。今回わたくしはとっても緊張している。「大変なものを引き受けてしまった」という気持ちと、一つのディナーをトータル・コーディネートできるという楽しみと、「コックとして働いたことはない」と言ったのにうっかり採用されてしまった焦りと、ラ・ルムエラの評判を汚すようなことがあってはならないという恐れと・・・と染みったれたことを言っていては何も変わらない。ひとまず少しでもイメージを良くする為に、前菜の皿には極小サイズの鶴をのせるとか、ニッポンからこれまた持参した和紙で箸置きを作ってみるとか、そういう小手先の西洋人対策を練っている次第である。このディナーがどう展開するかは、また今後の報告で。