アルバニア人殺人事件

barmariko2005-01-25


それが起こったのは2004年の秋もそろそろ終わりに差し掛かる頃だった。バール・アルベルトで働いているとき、朝からウンブリア地方新聞片手にカウンター客の話題はこれ一つだった。
アルバニア人がまたやらかしたらしいぞ。」「殺人だってさ。ベッラ通りで。」「仲間割れか?」「あいつの顔知ってるよ。たまにバール・フランコで見かけたよな」

アルバニア人。」この言葉には含みがある。イタリアにおけるアルバニア人像というのは正直最悪だからだ。「泥棒、ドラッグ密輸、狂暴で無教養・・・」挙げたらきりがない。
イタリアのかかとにあたるプーリア州の街バーリには港があり、毎日アルバニアからたくさんの経済難民がやってくる。ビザなしの不法滞在者は数知れず、ドラッグの密輸売買や売春斡旋などに関わるアルバニア人の数は増えるばかり。アルバニア人による盗難や刑事事件も後をたたず、イタリア国内における対アルバニア問題は非常に深刻となっている。

勿論(この前置きは常に必要なのだが)、全員がそうなのではなくただ絶対数の問題である。そういうアルバニア人が実際イタリア国内においては非常に多いというだけである。
例えば引ったくりや盗難に会うとする。残念ながらここイタリアでまず疑われるのは「アルバニア人」「モロッコ人を代表とする北アフリカ人」「アラブ系」の人々なのだ。

こういったアルバニア人に対する見方が根付いているイタリアで、冒頭の「アルバニア人殺人」が新聞に載ったとしても、それは「またか」「やっぱり」という感情を引き起こすだけだ。
事件の起きたペルージャのベッラ通り(美しい通り)はわたくしの家から歩いて10分もかからない、エトルリア時代の遺跡「ペーサ門」から少し入った小道である。どうやらアルバニア人兄弟が二人、共謀して別のアルバニア人男性を刺し殺したらしい。料理用包丁で腹をグッサリ、しかも刺されたアルバニア人男性は恋人と夜のベッラ通りを歩いていたというのだ。

バール・アルベルトの常連客が朝からそんな話で盛り上がっていても、わたくしは知らん顔していた。あまり興味が無かったし、結局いつもの「アルバニア人はこれだから困る」「奴等は常に刃物を持ってるんだ」「人間とは思えない凶暴性」という話題で延々討論が続くだけだから。

だから。翌日駅まで買い物へ行こうと街を歩いているとき、ふと目にしたエディコラ(街中の新聞スタンド)で、わたくしの非常によく知っている顔がアルバニア人殺人犯として各紙の一面を飾っているのを見て、脳天を打ち砕かれるくらいショックを受けた。まさか自分の知り合いだとは思ってもみなかったのだ。知り合いどころか昔の仕事の同僚で、殺したほうも殺されたほうも知っている。
結局原因は最後まで曖昧だった。ドラッグ売買かやはり売春関連か、ということらしい。
加害者兄ロベルト27歳、弟ウォルター25歳。被害者フロウ23歳。

ちょうどイタリアへ来て4ヶ月目、わたくしはヴィオラ通りにあるカフェ・ラティーノという小さなバールで働き始めた。
オーナーはカルメン、わたくしより5歳年上のペルー人女性だった。バールと言えばバールだが、カウンターは猫の額ほどの狭さで、ただ奥に10席ほどテーブルの置けるスペースがあった。日中はカウンターのみの営業とし、毎週土曜日ラテン音楽生コンサートがある時だけこの奥のスペースを開放していた。当初わたくしはこの土曜のコンサート時のみ、カメリエラとして働いていたのである。

とにかく小さいバールなので、朝と夜は毎日カルメンが一人で店を切り盛りし、ほかに昼の12時から18時までカルメンの代りに働くバリスタがいた。それが、アルバニア人のロベルトだった。
ところが2003年の復活祭のとき、突然アルバニアにバカンスで一時帰省したいと言い出したため、カルメンはわたくしに、毎午後一人でロベルトの代りにバリスタとして店で働けるかと聞いてきた。無論「できない。」と答えた。大学もあったし、何よりイタリアへきてまだ半年の語学力で、一人で店番などとんでもなかった。電話すらまともに出られない状態で、カプチーノすらいれたことがなかったのだ。

しかし最終的に折れたのはわたくしで、1ヶ月だけ、という約束でロベルトの代りを勤めることになった。そして2日間ロベルトと一緒に試しで働き、カフェマシーンの使い方やカプチーノの入れ方、カンパリソーダはここ、ノンアルコールの食前酒はここ、レジの使い方はこう、と全てを何とか無理矢理叩き込んだのだった。

そうしてわたくしの地獄の1ヶ月が始まった。そして気付いたのは、ここはペルージャ中のアルバニア人が集まってくる、ということだった。仲間意識が強い彼らにとってロベルトがバリスタといて働くここは格好の溜まり場となっており、新米のアルバニア人カフェ・ラティーノの近辺で家を探すのだ。毎午後カフェ・ラティーノはアルバニア人で満員御礼だった。

いくら当時のわたくしの語学力が微々たるものだったとしても、彼らの話すイタリア語の酷さはよく分かった。語彙力や文法力の問題ではない、良識や教養の問題である。
例えば「カフェを一杯ください」「カプチーノください。出来ればぬるめ、泡は少な目にお願いします」と普通なら注文するところが、彼らの場合は「カフェいれろ」「カプチーノ、熱くするなよ」、全て命令形だった。
どんなにイタリア語を知らなくても文法的に間違っていても、英語のプリーズにあたるペル・ファボーレを付けるだけで100%丁寧な口調になる。それをしないのは、人に物を頼む、ということを知らないからだ。彼らにとって彼らが全て、世界の頂点に立つのは彼らであり、ましてや肌の黄色い東洋人なんて下の下、と口に出してこそ言わないものの、その話し方からは彼らの根底にある思想が簡単に読み取れた。

まだイタリア語がままならないわたくしは本当によく馬鹿にされた。「お前大学通ってるんだろ?なのになんでそんなにイタリア語分かんないんだよ」「いつになったらイタリア語分かるようになってくれるのかなあ。俺達なんて学校でイタリア語学ばなくても、半年もイタリアにいればすぐ吸収するのに」「カフェ・ラテ熱くするなって、言っただろ?」

たまにわたくしがお釣を間違えたりしようものなら、必ず影でカルメンに言い付ける奴がいて、後でカルメンからわたくしはよく怒られた。
しかしその反面、カルメンはお客のアルバニア人のことを全く信用しておらず、わたくしには口をすっぱくして「絶対客から目を離しちゃ駄目よ。彼らに背を向けるときは、そこの鏡に映る彼らの姿を追って。」「冷蔵ケースや冷凍庫は必ず目をかけて。絶対中のものを盗る奴がいるから」「わたしのいないときは全部前払いよ。後で払うとか、ツケなんて言う奴は絶対信用しないで」
毎日彼らがいるときはピリピリと張り詰める緊迫感で仕事をしなくてはならなかった。

カフェ・ラティーノにやってくるアルバニア人はとにかく皆大酒飲みで、夕方ともなれば酔っ払って大騒ぎだった。しかも夜な夜な街を徘徊し、街中や郊外にあるディスコで乱闘騒ぎを起こすこともあって、よく顔に大アザや切り傷を作っていた。
他の街に住むアルバニア人ペルージャにやってくると、挨拶をかねてカフェ・ラティーノに顔を出し、昼から飲みだすこともしばしばだった。
ある時、ナポリ付近に住むアルバニア人マルコがやはりカフェ・ラティーノにやってきてカウンターで酔っ払って大騒ぎし、挙げ句の果てに飲み代を誤魔化そうとした。
「ちょっと、ビール2本まだ払ってないよ」とわたくしが言うと「何言ってんだよ、払ったよ!」「俺もマルコが払っていたのを見た」「そうだ、そうだ払ってるよ。お前の勘定ミスだ」と総勢10人程いたアルバニア人からの猛攻撃にあった。
「ここで唯一酔っ払ってないのは誰?わたしよ。あんたたち皆飲んでるでしょ。勘定忘れてるのはそっち。わたしは全部書き留めてあるんだから」と、今でも覚えているがわたくしは必死に主張した。結局1本だけ払って「このクソ女!」と捨てセリフを吐き、そいつは出ていったのだが。

ペルージャ警察も問題をよく起こすアルバニア人の溜まり場としてカフェ・ラティーノを位置づけていたため、頻繁にコントロールにやってきた。全員を一列に並ばせ、身分証明書と滞在許可証をチェックする。ちなみについでにわたくしも聞かれたのだが、「日本人です」と言ったら一発OKだった。警察がこうも頻繁にコントロールにやってくるバールって一体何なんだ、その時点で普通ではない。
こういう状況は土曜日の夜5時間働くだけでは知り得ない、全くもって未知のことだったのだ。
しかも土曜日のコンサートは、南米人や日本人を含む外国人も多く、アルバニア人だけのコミュニティには全く見えなかったのである。前もって知っていたら働かなかった。

カルメンは「アルバニア人は酒飲みだから、お金落としていってくれるからいいのよ。うちにとっては。それだけの客よ。」等と言っていたが、それ以上にこの風紀の悪さで客を逃していることを賢い彼女が知らなかったはずはない。
わたくしは、店先でアルバニア語で大騒ぎする彼らを見て、顔を思い切りしかめて通り過ぎるイタリア人をたくさん見た。実はここのカフェはバール・アルベルトのそれと比べて抜群に美味しいのに、それでも店に寄り付かない。

ロベルトが働かなければカフェ・ラティーノにこれだけのアルバニア人が集まってくる理由は全く無いのだ。ロベルトが仲間に場所を提供し、カルメンが日中いないのをいいことにビールを振る舞い、日中奥の閉めているスペースでテレビや映画を見せていたとしても、カルメンはロベルトを首にせず働かせ続けた。これには訳がある。世界で最も一番簡単な理由、それはロベルトがカルメンの8歳年下の恋人だったからである。何でこんな奴が。

恋人をイタリアに、自分の側に置いておきたい一心で正規の雇用契約を交し、有給もボーナスも与え、何より労働ビザを与えることでイタリアに正式に住まわせる。
ロベルトが店先で他のアルバニア人客と乱闘騒ぎを起こしても、それはカルメンにとっては美しい話となっていた。「見た目はヘラヘラしてるけど、怒ると凄いの。あんなに凶暴なアルバニア人たちを全員投げ飛ばして。皆恐くって、怒ったロベルトには誰も近づけない」

その挙げ句の殺人事件だった。

カルメンは10代の頃イタリアに独りでやってきて、約20年間一心不乱に働きやっと自分の店、カフェ・ラティーノを2000年にオープンさせたのだ。ペルージャの中心地に住み、プジョーのオープンカーを乗り回す。2003年冬にはペルージャの郊外にラテン・アメリカ音楽のディスコもオープンさせ、ロベルトをそこでも働かせた。お金に対する執着心が強く、基本的に他人は全く信じていないので、新しい事業もお金のやりくりも全て独りで毎日寝ずに奔走していた。

その昔カルメンは滞在許可証を得るためにイタリア人と偽装結婚もしたし、もっと若い頃は売春もやっていたとロベルトがいつか言っていた。人間30歳も過ぎれば、それぞれ人には言えない過去や事情があるのは当然だが、自分の恋人のそういう過去をわたくしに笑いながら話すその神経がまず信じられず、カルメンの唯一の人生の過ちはロベルトなのに、とつくづく思った。

彼女は今どうしてるのだろう。20年間イタリアで築き上げたものが、恋人のアルバニア人ロベルトによってガラガラと音を立てて崩れた今。わたくしはロベルト代替バリスタとして1ヶ月働いた後、土曜日のカメリエラすらも辞めてしまったし、その後カフェ・ラティーノ自体が閉店してしまった。

このアルバニア人殺人事件は数日間報道され続けた。何だかんだ言ってもペルージャで殺人事件というのは希だし、ロベルト兄弟はきちんと雇用契約を交した上で合法的にイタリアに滞在し、一応バールのバリスタということで小さいペルージャでは割りと顔が知られていた。
何より女手一つで頑張ってバールを開いたカルメンペルージャの飲食店関係者の間では有名だったから、その恋人がロベルトであり、そして殺人を犯したという事実は瞬く間に広まった。

それにしても、忘れようにも忘れられない。わたくしのイタリアで一番最初のカフェ。カプチーノ。全て加害者ロベルトから教わったものだなんて。