ここが変だよニッポンジン(続編)

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さて「純真無垢」というのはどうか。イタリア語でよく言われるのは「インジェヌオ」という形容詞である。疑うことを知らないとか、純粋な、天真爛漫な、といった意味だ。「お人好し」と言うとすっきりするだろう。わたくしのルームメイトのブラジル人カリーナが言っていた。「ブラジルにはニッポンジンが沢山いてわたしも親友が一人いるんだけどね、彼らは何と言うかお人好しすぎるのよ。勿論そこがまた良いところなんだけど。そもそもブラジルやらペルーやら南米国というのは歴史的に常に植民地戦争が繰り返されてきたでしょう。純真無垢ではやっていけなかった、ずる賢くなければ生きていけない、だから「疑う癖」はわたしたちの体に頭に精神に血にこびり付いているんだと思う。それは陸続きのヨーロッパ人も同じ。ニッポンは島国だから多分わたしたちに比べたら国情勢は遥かに穏やかだったんだと思うよ。そう考えればニッポンジンの「人をすぐ信じる」言動は持って生まれた国民性だとしかいいようがない。」

ペルージャでよく目にするニッポンジンのお人好しぶりは、やはり家を借りるときにも発揮される。値段交渉というものをまずしない。提示された価格は飲み込む。光熱費を払う時、大家の言ってくる料金を信じ「明細見せて」と言わない。それからこれも多い。タダで仕事を請け負う。HPを作成できる、プロのカメラマンとしての経験がある、建築家で図面をおこせる・・・こんなニッポンジンがいたらイタリア人もその他外国人もハイエナのようにやってくる。「ちょっと、やってくれないかな。時間のあいてるときでいいからさ」ここで「プロだからお金かかります」と言うニッポンジンは少ないだろう。「いいよ」と安請合いするに違いない。わたくしたちニッポンジンの言い分としては「海外での経験はないから」「イタリア語話せないし」とこれまたスーパー謙虚な姿勢なのである。

ちょっと話はそれるがイタリアの星の数ほどあるレストランで修行しているニッポンジンコック見習いの仕事状況を見てもそれは良く分かる。朝から晩までみっちりタダ働きしているニッポンジンがイタリアにはなんと多いことか。週に休みは1日だけ、毎日10時間以上の労働、でもお金は一銭も貰わない。「良い経験だから」「良い勉強になってるから」「イタリア語もまだ上手ではないし」「イタリアでの経験はないから」とその理由はたくさんある。わたくしにはコックとしてトリノ近郊リストランテで立派に働いている女友達がいるのだが、彼女曰く「お金の話は最初にこっちからしないと駄目。何も言わないと一銭もくれない。月1000ユーロ欲しいんだけど、とか駄目もとで言ってみるとあっさりOKされることが多いんだよ。こっちが何も言わなければああ、こいつはタダでいいんだなと思われて利用されるだけだし、そんな私たちに敢えて向こうからお金いる?とは聞いてこないから。」

そうだ、「お人好し」もあたってるかもしれないが「謙虚さ」、これもニッポンジンがよく言われることの一つである。「謙虚」なのか「臆病」なのか「自分に自身がない」なのか、その差は非常に曖昧であるが「自分を売ることが下手」であるのは間違いない。仕事の依頼があるときも「お金の話」をするのに非常にためらう。(いきなりお金の話を切りだすのも失礼か?
)(ニッポンジンはお金の話ばかりと思われたらイメージ悪くなるかも)とかそのタイミングを見計らおうとし、逃すのだ。アンドレアは「それも一つの教養かもよ」と言ってくれるがそれは違うだろう。

他のルームメイトとアパートをシェアするとき、痛い目を見るのはいつもニッポンジンである。いつも洗わずにほったらかしにされる皿や鍋。最後に見切りをつけて洗うのはニッポンジン。そしてそれを「お前、皿きちんと洗えよ」と外国人やイタリア人に注意できるニッポンジンは殆どいない。台所にある食料を勝手に使われても冷蔵庫を勝手に漁られても何も言えない。ひとが多い。「他のルームメイトが全く掃除をしない」「洗濯洗剤いつも勝手に使われてる」「わたしのオリーブオイル勝手に使われてて無くなっても買ってこない」「夜中まで爆音で音楽聞いてて眠れない」「毎日酔っ払って朝帰りで大騒ぎする」そんなニッポンジン被害者からの話は腐るほど聞く。

しかし結果嫌な思いを溜め続け、これ以上我慢できなくなって家を移るのはニッポンジンであることが多い。しかもこんな状況でありながら大家に迷惑がかからないよう突然の引越しはしない。前もって引越しの旨を伝え、こんな酷い家であるにも関わらずあと2週間、あと1週間、と我慢して規定の引越し日までは耐える。これも「教養」なのか??だとしたら凄い。自分を犠牲にするのが「教養」なのだとしたら。いや、多分違う。「自己犠牲」はもはやニッポンジン精神の域に達しているのだろう。だがこれは問題解決能力、現場適応能力に欠けるニッポンジンの一面でもあり、それは「島国だから」というカリーナの意見にも一致するところがある。

よくニッポンジンは「揉めるくらいなら自分でやったほうがまし」と冷めたことを言う。先ほどの他のルームメイトの汚れた皿や鍋を注意するくらいなら自分で洗ってしまえというヤツである。「お人好し」なのかもしれない。しかし同時にやはりあの「スーパー平和主義」「揉め事回避主義」の表れであることは間違いない。かくいうわたくしだって、その道を外れることなく歩んできたし、2年半に及ぶイタリア人や外国人との共同生活で嫌というほど思い知らされたのは「ニッポンジンであること」なのだ。

ここでまた一つの例をあげよう。ペルージャ外国人大学でとある授業中に、教授がわたくしに質問した。「僕はここで教えてもう20年が経つんだけど、どうしても忘れられないことがあるんだ。もう10年以上前、卒業試験中に突然泣き出した生徒がいてね。それがニッポンジンの女の子だったんだよ。後にも先にもあの子だけだよ、試験中に泣いたのは。わたしには難しすぎますって言っていたよ。あの涙は物凄くニッポンジン的な気がしたよ。君はどう思う?」それは多分ニッポンジンの「完璧主義」「間違えることへの恐怖」に繋がるのでは、とわたくしは応えた。

「ニッポンジン・スピリッツ」は外国にくると改めてその特異さを感じる。イタリア人はこう、フランス人はこう、ポルトガル人はこう、ドイツ人はこう、とそう簡単に特徴を述べることはできない。祖先は皆繋がっているわけだし、何といっても陸続きなわけだから。しかしニッポンジンの言動は彼らのそれと比べると際立って異なることが多い。ニッポンジンが違うのである。このブログももしわたくしがスペイン人やギリシャ人だったら書く必要がなかっただろう。特筆すべき際立った差はないだろうから。ニッポンジンであるからこそ、ここイタリアで毎日分刻みで起こる出来事がいちいち事件になり、疑問を持ったり激怒したり感動したりするのであろう。