ここが変だよニッポンジン

たまには我が国を振り返ってみようではないか。ニッポンジンと言えば?「教養が高い」「テクノロジー」「働きすぎ」「金持ち」「純真無垢」・・・こんな言葉が返ってくる。実際のところどうなのだろう。

「教養の高さ」実際一番返答として多いのがこれなのである。常識がある、マナーを必ず守るというイメージが強いらしい。特に海外に滞在しているニッポンジンはおとなしいし騒ぎも起こさないし、いい子ちゃんイメージがしっかり根付いている。ここで言われる常識というのは本当に身の回りの小さなことである。例えばバールやパブに入ったら必ず飲み物は頼む、たとえ喉が渇いていなくても「何にしますか?」と聞かれたら他の外人のように「今いりません」とは決して言わない。引越しをするときは徹底的に片づけ掃除をしてから部屋を明け渡す。公共の場で大騒ぎをしない、公共の場では列を作って待つ、ゴミは仕分けする、犬の糞は始末する、重要文化財には落書きをしない・・・

実際ペルージャにはニッポンジンにしか部屋を貸したがらない大家が山ほどいるし、その理由は簡単でニッポンジンは教養があるから、特に「部屋を汚さない」「家賃を直ぐ払う」「文句を言わない」の3点である。つまり彼らにとってニッポンジンは非常に扱いやすいのである。がしかしニッポンジンが「文句を言わない」のは教養ではない。宗教的文化的に「堪忍ぶ」ことが美徳であったニッポン、それが我々の骨に未だ染み込んでいるのも一つの事実である。だが「誰にでも良い顔をする」「スーパー平和主義」の表れでもあるのは間違いない。更に「ノーと言えない日本人」にも繋がる。これは外国にくると更に顕著になるような気がする。イタリア語や英語がペラペラの外人を前に圧倒されただでさえ謙虚なニッポンジンはより引きこもる。何を言われても「イエス、イエス」、反論するなどとんでもない。例えばみんなで食卓を囲んで夕食会。よく言われるのはニッポンジンは出されたものは全て食べる、ということだ。イタリア人の友人は「作ったひとのことを考えてるからでしょ。これは立派な教養だよ」とおっしゃるのだが、こんな小さなところにもニッポンジンらしさは表れる。「これはいらない」と言えないのだ。

その結果これも外国ではよく言われる「ニッポンジンの変な笑顔」を生み出す。とにかく愛想がいい。とりあえず「笑っている」。イタリア語の意味が分からなくても「分かんないんだけど」と聞く前にとりあえず「笑っている」。これは実はニッポンジンというものを誠によく表わす深い含みのある行為である。

「働きすぎ」について。ニッポンジンが働き虫であることはもはや世界共通事実である。しかし賞賛を持ってそれを言う外国人は非常に少ない、というより聞いたことがない。批判めいていることが殆どである。あるバールのオーナーに「ニッポンジンは本当によく働くよね。でも物理的生活は富んでるけど精神的生活は貧しいって本当?」と聞かれたことがある。一理ある。だが働かない奴らに言われると正直むっとする。(じゃあお前らプレイステーションで二度と遊ぶな)(トヨタの車に乗るな)(そのデジカメ、日本製だよ)(あんたの家のテレビ、ソニーじゃないの)と言いたいことは山ほどある。ニッポンなくして現在の世界のテクノロジー水準は保てるわけがない。とは言うものの、家庭を省みない(ひとが多い)、仕事第一、18時に会社を出るのは気が引けるオフィスの空気、有給が取り難い(義務なのにも関わらず)・・・というのは悪い意味でニッポン的であるに違いない。

以前ジュセッペが彼の仕事環境の悪さに愚痴っていた。システムエンジニアとして働く彼はイタリア人にしては珍しく(しかもペルージャで)毎日朝の7時半から夜の20時までみっちり働き、しかも土曜日出勤までしているというのに自給に換算すると「自給5.7ユーロ(約800円)」らしいのだ。「全くイタリアの労働条件の悪さといったらないよ。ニッポンだったらこんなことないだろう?もっと稼げるよね、エンジニアなら。」そこで思い出したわたくしのOL時代。年報制になるまでは18時までの基本給のみで、いくら夜中の24時まで働いてもその6時間分の残業代は出ない。それが分かっていても残業する社員。毎月の基本給を単純に労働時間で割れば恐らく自給700円くらいである。(イタリアより酷い)この感覚は外国人には全く理解できないという。18時以降は給料が出ないと分かっていながら何故残業するのか。イタリア人の友達はみな「そんなことしたら、こいつはそれでいいんだと甘く見られて一生給料が上がらないじゃないか」と言う。しかしそれは既にイタリア的な考えである。「違うんだよ、ニッポンだとさ、その残業行為が最終的に認められて逆に給料が上がったりするんだよ」と言うと「信じられないよ」と呆れられる。確かに客観的に見るとおかしいことこの上ない。


「金持ち」についてはどうか。全くニッポンジンに対するイメージが「金持ち」とは困ったものである。わたくしなどバールのカフェ1杯すら最近は我慢してしまうというのに。ニッポンが電化製品や車をはじめとするテクノロジーを引っ張る国の代表として言われているからというのもあるが、イタリア人が「ニッポンは金持ち」と言う理由はまだある。毎日大量のニッポンジンがイタリアに到着してはローマのコンドッティ通りに並ぶブランド店に押し寄せ、フィレンツェに移動してはグッチの本店に並び・・・という現状がテレビにも映し出されるからである。以前も書いたがローマのコンドッティ通りで一番お金を落としていくのはニッポンジンであり、次がアメリカ人である。イタリア人にとっても高い買い物であるグッチの鞄を、20歳前後の若者が卒業旅行にやってきては買いあさっていく。グッチもフェンディもプラダも店に何人ものニッポンジン店員を置く。イタリア人が「ニッポンジンは金持ち」」と信じて疑わないのも無理はない。

ちなみに世界で一番海外旅行をするのはニッポンジンである。これも外国人からすると「金持ち」の一因らしいのだが、その旅行の仕方がまた非難される対象となる。もう1年半ほど前のことある夜ダウンタウンで働いていると、カウンターに座った常連客のマルコとミケーレがこんなことを言い出した。「ニッポンジンは何で1週間のバカンスで3都市も4都市も周遊したりするわけ?ローマ2泊、フィレツェ1泊、ミラノ1泊とか、ローマから日帰りでナポリへ行ったりとか、やりすぎだよ。大体1日でその都市の何が分かるっていうの?1泊だろ、ローマだったらどうせまず買い物なんだろ?でバチカン美術館に並んだらそれでおしまいじゃないか。時間に追われて過ごしすぎだよ。」

一理ある。勿論そうである。だがわたくしはニッポンジンであるから一応弁護の側にまわった。「それはそうなんだけど、ニッポンはバカンスが非常に取り難い国だから。夏休みだって1週間が精一杯っていう人が殆ど。1週間しかないけど仕事を忘れるためにも気分転換する為にも海外旅行したい人一杯いるんだよ。で、次はいつバカンスがとれるか分からない状況だから、出来るだけ詰め込もうとするのよ。そりゃあバカンスが1ヶ月くらいとれるなら、誰も1日おきに移動したりしないって。」「1週間のバカンスだったらローマだけ、とかにすりゃあいいじゃないか。落ち着いて街に少しでも溶け込まないと街を感じることなんて出来ないだろう」ごもっともである。

確かにニッポンジンの旅行の様子は非常に揶揄されることが多い。このほかにもよく言われるのがやはり「写真をとりまくる」であろう。ローマで最新のデジタルカメラ片手に街を闊歩する、スペイン広場、トレヴィの泉ヴェネツィア広場、コロッセオパンテオンバチカン・・・シャッターを切りまくる。しかし。20年前ならニッポンジンがそう言われても仕方がないが、21世紀のこの御時世、デジタルカメラを持っている外国人は何もニッポンジンばかりではない。イタリアの歴史的建造物の前で写真をとるのはニッポンジンだけか?絶対そんなことはない。就学旅行でやってくるフランス人高校生やドイツ人だってカメラ片手に写真撮影に忙しいではないか。そもそもイタリア人はニッポンのカメラやビデオカメラが大好きだし、彼らだってソニー富士フィルムやキャノンのブランドには目がない。

では何故ニッポンジンばかりが指をさされるのだろう。昨年はテレビのCMでこのニッポンジン旅行客を皮肉ったものがあった。ローマでニッポンジンツアー客を先導するイタリア人ガイドが、あまりに勝手に写真撮影の為に列を乱し撮影禁止のところでも平気でシャッターを切るニッポンジン客に閉口してすっかりストレスが溜まってしまう、というものだった。そして口にしたキットカット。これで見事パワー復活、元気を取り戻すというつまりキットカットのCMである。(ちなみにCMタレントはニッポンジンではなく恐らく韓国人だ。まあこの差はイタリア人にとってみれば何でもないのだろう。東洋人であればいいのだ。)

わたくしが思うに、ニッポンジンは目立つのである。というのは、いつも写真を撮るとか、買い物ばかりするとか、急ぎ足のバカンスとか、そのどれか1点だけならこれほど言われることはないのだ。それを全て一度にやってしまうのがニッポンジンである。つまりバカンスは1週間、毎日街を移動、1時間おきに組み込まれた集合時間、その為必然的にブランド通りでの買い物は急ぎ足、時間がないのでそのブランドの紙袋を持ったまま片手には最新デジカメ、シャッターチャンスは逃さない・・・何と言うかある意味マンガの世界である。この姿が目立たない訳はない。(後編に続く)